名前を付ける

本のことを書いてあるブログ

だからどうした的な記事

こんばんは。
暇なので、ブログを読み返したりなどしていました。何か最近は本当に書くことが全く無くなってきていて、こちらのブログも別アカウントも休止状態です。

たまーに、見てる方から「読んでるよ」とかあとは親しげに声をかけられたりする事があったりもするんですが、もちろんそれは嬉しいけど「いったいそれ、どういうこと?」の気持ちが勝って本当にはてなだらけになる感じです。そう、わたしは「書く→自分で見る」という単純なアウトプット→客観的に見る作業はえんえんとして来ていたのだけどそれを「他人が見る→自分がそれに応える」的なこと、もしくは「自分が他人のを見る」という作業を人の十分の一くらいしか多分していないのだと思った。そもそもで他人の書いた記事を定期で読んでどういうひとかな?とか想像したり話してみたり、更新を心待ちにしたりとかいう経験はほぼゼロといっていい。正直に言おう。わたしは、インターネットに生息してる人間、タレント紛いの行為が全キモチワルイと思っていました。今もそうなんですがただ、書くのは好きなので書いていた。

まあそれはいいんだけどとにかくそういう逆の立場から見守っておるという経験がない場合、「見たよ」的な意見、それが客観的にどういうことなのか把握しづらい。「読んだよ」って言われても「へー、」としか思えなかった。親しみを込められても意味不明と感じていた。極論を言えばあんたに向かって書いてないのに何故?みたいな。まあそれを言ったら閉鎖に直結しがちな感想だったりしますが、今、自分が結構YouTubeとかブログとかをお気に入り登録して見るようになってから、そういうことをやっと「あ〜!」と思うようになりました。
たぶんそれは、行動を共有してるみたいな感覚なんですよね。それに、話し言葉も、たぶん放出してる方は「一人きりの行為」なんだけど、みてる方は「話しかけられて、一緒に考えてて、親しみを感じてる」みたいなとこまで感じてるのかもしれないなと思った。
なんとなくそれは分かってるつもりではあったけど、読んだ側も「読んだ」っていう行為をまったく拝して「あらかじめ知ってた」みたいな感じで来る人も、ネットの中では距離を排してるせいか多かったりして、受けている側からすれば全てをごた混ぜのまま全部無理ってなることもままあるのかなあと思ったりしてます。
あと、短歌アカウントの方もう気持ち悪いんで見てません。

人生も三分の一くらい終わってますけれど、最近そのようにこれまで経験してきたことも向こう側の側面から今一度経験するということが多くなって来ています。
あの人は今…的な感じにもなりますよね。

まあほんとに手前味噌100%みたいな記事になっちゃいましたが、そういう感想もどこかにはあるんだなぁっていうところでしょうか。


とにかく自分は、ここ最近、ネタはなけれどなんとなく記事を更新しなきゃなーとは思っていた。見てる人がいるとは言っても極小だし、草花の話題なんて興味ある人いるかどうかはわからないけど、自己満足だけど、でもプラス1ミリくらいの効果で多分、「役に立つ」だろう行為はしておいた方が良いような気がしてて、絞り出している昨今でした。