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本のことを書いてあるブログ

養老孟司「運のつき」を読みました

養老孟司「運のつき」を読みました。
養老孟司さんの著書はベストセラーになった「バカの壁」それからエッセイをいくつか読みましたが、いつ読んでも眼から鱗が落ちるような新しい発見があります。

バカの壁ー死生観それから個性について

「運のツキ」の中では養老さんが勤められていた東大医学部の解剖学教室での経験に基づく死生観、それから人間というものの原初の在り方に回帰するような考えでいろいろな事象が噛み砕かれて行きます。
バカの壁にもありましたが養老さんの仰る人の精神には本来、個性などはなく、個体差というものは体の方に帰属するという考え方は、当時篠原ともえのような個性派タレントがフューチャーされ「日本人よ個性的になれ」が蔓延していた世の中ではあたらしく思えた考えだったように思います。

人が「個性=自分」と感じるのは脳が昨日からの日々を自分と認識し、それによって秩序、見ている世界を保とうとするためで、その意識を解体して仕舞えば確固たる個性の枠なんていうものは、無いのかもしれません。が、この時代で「個性なんてもの存在しない」というのは常識を全く受け取らない、驚くような考えで、わたしがこれを読んだ当時は多分学生だったため、こんなふうに柔軟に考える力、それから経験の積み重ねによる予測、なんてのもあまりなく、頭ではなんとなく理解しつつも「そうなのかな?」と考えてた状態だったと思います。…子供、っていうのは、世間から常に認知されている状態なため、自分一人でいる必要性がそもそもなかったんだろうなと今では思います。朝、起きれば母親から「おはよう」と言ってもらい、学校に送り出される毎日で、先生からも生徒として扱われて生きてて、「わたしはわたし」でしかなく、常に評価を受けて、そんななかでは余程個性的でなければ「わたしはわたしと規定しているだけで、単なる流動体である」とは思わないのかもしれない。安定していればこそ…。社会に出て、太いレールから一度外れたり、遠目で見るようになり、自分で選ぶ、自分で考えてもいい場所に来て初めて「考えれば自分と認識しているのは単なる積み重ねかもしれないな」という意識にまで来れるのかもしれません。そう考えると、子どもっていうのはつまり、世間全体にとっての子どもなのだなと思う。

「ここに居ても良いのだろうか」という申し訳ない気持ち

ちょっと、話がそれましたが養老孟司さんのエッセイからどことなく漂ってくる、アウトローな感覚、語り口、当たり前を崩していくような考え方にそれはこの「解剖学を選んだ」というところから来ているのかと思いがちでしたが、今回養老さんが幼稚園児のころから「ここに居ても良いのだろうか」というその場所にそもそものめり込めない感情を常々抱いていたという事が書かれていて、こんなふうにひとつひとつを考え込まなければ気が済まないからこそバカの壁のような考えがうまれた、それはなるべくして成ったというようなそんな感じがして、何か養老さんの考えがより理解できたような感じがしました。それからあとがきで紹介されていた養老さんのお母さんの著書から「母は娘のころ、故郷の草原に寝転んで大空を眺める。(私が死ねば、この空も水もない。私がいるから、私には空も水も人もある。大切なのは私と私の心なのだ。そうだ、私は私の心のままに好きに生きよう)」と決心される記述がとても興味深かったです。
そんなふうに、人というのは流れ行く世間に埋もれながらも、自己をはっと認識する瞬間、というのが、抑圧を感じるほどに訪れる瞬間がもしかするとあるのかもしれず、いま、生き生きと(養老さんの母親の職業は医師)生きているように見える人ほど、わたしたちは見てるだけの立場のくせして「いいなあ」なんて思ってしまいがちですが、もしかするとそんなふうに悩み、考え、ここから一人でも飛び出してやろうと思う機会があったのかもしれないと思います。

この養老さんの「ここにいても良いのだろうかと思う、世間に申し訳ない気持ち」をタレントのタモリさんも幼稚園児のころから感じていたというのを以前テレビで見たことをわたしは思い出していました。たしか、徹子の部屋で、タモリさんは幼稚園のお遊戯をバカバカしいなと感じていたそうで、そんなことを「変わってる」とひとくくりにしてはいけないと思いますが、まず足元から見つめたことが考えを生み、変わってると思われていたことは世間の共通認識をやがて帯び、人を感心させるようなその何かが成り立って行くのだなあと感じました。

「死んでも良い」が問題になる時

中盤で気になったのは、第二章の身を鴻毛の軽きに置いて、の部分で自分の命を軽く思う考えについて書かれていたところ。「死んでも良い」という考えについて養老さんは書かれています。これを、個人的に考える場合と、それから宗教や国民意識に結びつけられて考えた場合とで細かく区切って書かれています。
例えば、多くのために個人を滅するという考えは日本人に古くからあるものでした。世間のため、家庭のため、それは犠牲ともとられる場合のある考えなのですが、本来はそれが主張として出ない場合は特に問題とはならないものです。文学でもときどきこういった滅私奉公的な考えは古いとされ批判的な物語で書かれることもありますがわたしは、根本的に日本人はそういうものだと感じることが多いため、匙加減は個人的な兼ね合いの部分にあるのかなと感じていたので、世間と個の在り方というものに照らし合わせてある文章に共感しました。明るみにでる批判しやすいものを人は批判しがちで、しかもそれが古い感覚だとなると糾弾する気持ちも強くなるのかもしれませんが、こうやって元を辿っていけばそれはもともと国民意識だったり、他の世間との擦り合わせとしてある場合もある。そうなると、じゃあなぜ批判するのか?というと、気持ちいいからで、糾弾しやすいから。それに、美意識でさえあることもある。それが宗教や戦争の大義と結びつき、自爆テロや特攻隊などと結びつくとそれは途端に脅威と考えられるようになります。が、根本的にその「命を軽んじる」という考えは同じところから来ている。こういった、結局は同じ思考回路の同じ民族が、互いに理解を得ないままで戦い合うような状態はたくさんあり、根本的な原理はひとつ立ち止まれば容易に分かるのにそれができない状況もあります。普通の人はあまり気づけないことで、そもそも今でなら関係ないからとにかく燃やしたいみたいな感じもあるのかもしれませんね。そして、次の日まるっと居なくなっていることに驚くのですが。結局、どれだけぐちゃぐちゃにされようが、理論理屈もなく騒がれようが、その土地に残された方はずっと考えなければならない、そういう時やっと「根本から考えてみる」ことをするのかもしれません。

純粋行為、誰もがやらずにはいられないこと

それから純粋行為という、それ自体に意味が存在している行為に対する評価は、世間の状態が変わることと、その人間が所属している世間が変わることで変わってくるような性質があると書かれています。純粋行為というのはつまり、人が自然と行う行為で、排出行為がその例としてあげられています。普通に行う場合は、トイレなどの区切られた場所でそれをし、マナーを守っているため世間に迷惑はかかりません、が、それを公共の場で行ったり、あるいは、上司の写真をトイレに置いてするなどすればそれは問題になります。それもたまたまであれば問題にはならず、故意においたのであれば問題になる。なぜ、問題でなかったものがそんなふうに問題として押し上げられるのかといえば、その世間を区切るやり方は価値観によって変幻自在で、人間は純粋行為を絶対にやめられない生き物だからです。皆、排出はします。排出をしたらいけないと、けど言われます。だからマナーを守って、区切られた場所でやる。そういった純粋行為があちこちにあり、虫を取るだったり、社会や世間の価値観と照らし合わせた所なんの価値もない単純な人の楽しみとなる部分に、いまはいまは世間が狭くなっているだったり、SNSの密告社会でメスを入れられてしまいます。そこらへんの変化を息苦しいなどと言われますが、けど例えば戦時中にも「欲しがりません勝つまでは」という言葉が存在していたころは今でなら当たり前の色々な行為が後ろ指を刺されていたような構造と似ています。それはどこにでも起こり得る、そして現代的病理などでなく、世間と個人の擦り合わせだったり、正義というものが人間が生み出すあやふやなものでしかないという答えが見えてくると思います。
純粋行為主義、と養老さんは造語を作って仰っていますがここの概念が全くない場合と、ある場合で物事の見え方が違ってきます。大きな声に従事する、流行りに流されるというのはつまり自分の純粋行為も否定することにひいてはつながっていく可能性もあります。様変わりする価値観で、被害者と思っていた自分が加害者だったと次の日言われても何もおかしくはありません。正しいこともそうなのですが、正義も、結局のところは変わる性質があり、そこに後ろ暗さを持ちえていないものは信用できない、と養老さんはおっしゃっています。
このことからも人間っていうもののあやふやさこそをむしろ信じる方が良いのかも、と思います。人間をテーマにした小説がいくつか出ていましたが、自然状態にある人間、それから草や花、そういうものに人ってやっぱり囲まれていたいものなのですよね。そして個人でなく、周りとすり合わせたり押し引きしたりして常々変わっていく、そんな部分があるので、SNSという以前に、言葉で区切ることをよしとすれば、弊害はいくらでも生まれて来そうです。皆良い時もあれば悪い時もありますよね。家族は家族なりに、友人は友人なりにお互い様な形で結びつく程よさを持つとよいのかなと思います。

その、養老さんの考え方ですがご自身では自分は理解が遅いし、会議でもほとんど発言はしないほど熟慮してしまうと仰っていますが、本文の中にある剣道の話でなんとなく、掴めるような気がします。ひとつの動きを身につけて理解するためには、たとえば「斜めに竹刀を振り下ろす」という動きであっても、ねじる動きと下すの動きを習得しなければ出来ないとのことで、だから何かを遂行するため先を急ぐのでなく理解を求めている場合はその行為を何度も繰り返してさらにはひとつ、またひとつに解体していくことなのかなと感じました。

まとめです

新しい考え方を形づくりながらも終始養老さんがそんなもんでしょ、そうじゃないのあなた、だから言ったでしょ…のような飄々とした語り口で、物事に埋没していく自らさえ傍から嘲笑するかのような佇まいがあります。なんだか先に書いたような「のめり込めない自分」を未だもつ養老さんの在り方はこんなふうに考えを突き詰めたり、そうかと思えば突き放したりしながら、ゆるく全体像を掴み、解体して理解していくのだなと思いました。

運のつき (新潮文庫)

運のつき (新潮文庫)

  • 作者:養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/03/28
  • メディア: 文庫