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本のことを書いてあるブログ

最近買った本

最近買った本、読んでいる本

 

チクタク食堂/高山なおみ

 

料理家の高山なおみさんが毎日食べているものを写真入り、日記形式で紹介されている本。素朴な料理が多くて真似したくなります。「食べる」に焦点を当てること、語ることって本当にしみじみとこころの豊かさとつながっているなあと思う。

同じ高山なおみさんの「日々ごはん」というエッセイも購入。

 

チクタク食卓〈上〉

チクタク食卓〈上〉

 

 

 

日々ごはん(1)

日々ごはん(1)

 

 

 

 

 

わたしのグランパ、時をかける少女/筒井康隆

 

エディプスの恋人、旅のラゴスに続いて筒井康隆さんの著書を購入。SFっぽいところ、それから会話、物語の進み方が好きなのだと思います。

 

 

 

わたしのグランパ

わたしのグランパ

 

 

ジョゼと虎と魚たち/田辺聖子

 

「文車日記」をじつはまだ読み終えていないのですが、文章が好きだったので購入しました。まだ一話しか読んでいませんが面白いです。

 

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

 

 

 

プラナリア、それから利休にたずねよも探してみたのですが利休にたずねよは見つけられず、プラナリアはなかなかヘビーな作品のようで今回は購入しませんでした。

 

あとは漫画で「しーちゃんのごちそう」と「ポプテピピック」を買ってみた。

そしておもにkindleの方に読んでいない本が溜まって行っているのである。

 

最近は急に寒くなり、秋がやってきたという感じがしますね。周りの環境もそうだけど、なにか料理している瞬間とかにも秋のことを思い出したりして、実感もじわじわと「秋」に変わっていっている感じがします。俳句歳時記など読みこんで、俳句を作るのが楽しくなりそう。(短歌も作っています)

進撃の巨人〜28巻まで無料期間(ネタバレ有)

※こちら、あまりに文章が整理されてないため書き直しました。

 

 

進撃の巨人の、無料試読サービスがあったので早速読んでみました。色々と調べてみるといろんな媒体から見られるようだったのですがわたしは登録が不要なebookjapanというので読んでみた。
以前1〜14まで一気に買って読みそのあとは時々レンタル本でチェックしていた気がしたのですがおぼろげだったので今回は15巻くらいから読んでみましたが、ほぼ丸一日くらいはかかってしまいました。以前はアニが捕まってしまい、獣の巨人とユミルの巨人化のあたりで終わってたのですがその後もこんな壮大なストーリーがあったとは…!驚きです。

 

進撃の巨人のこれまで


進撃の巨人、特徴的なのは巨人というのが人間にとって圧倒的過ぎるというところで、序盤まず人がバタバタと死んでいくところが衝撃だったりします。「巨人」というのは圧倒的な暴力の支配、それから謎として人類からは受け止められており、人類は壁という存在に守られている、限られた安全、幸福を享受しながら暮らしています。
情報も手段もない中、壁の外を知ろうとする人間達は立体起動装置という巨人への対抗手段を編み出して、壁の外の世界を探索するのですが、その探索に対する犠牲が多く、無知盲目で居たい市民からは厳しい声が上がったりもします。こんなふうに序盤はずーっと圧倒的な巨人の力、それからそれに敗北される人類の感情というのがエレンやミカサ、アルミンなどの調査兵団を通して見ていく感じのストーリーです。

 

主人公の立ち位置、ストーリーの進み方


で、わたしが読んだところは壁の外、それから巨人の謎が解き明かされていくストーリーの部分なのですが主に「記憶」それから色々な民族の在り方を追っていく感じの話になっていました。人民が見ているのは束の間の幻の幸福でしたが、さらには記憶さえも操作されてしまうという現実。そこに置かれた主人公エレンが特殊だと思うのは、主人公としてなかなか簡単には立派にならないということだったりします。周りにいる優秀な人達の中においてもエレンは体術が得意ではあるけれどそれほどの信念、特技を持っているわけでもなく、常にあるのは単純な憎悪、だったり、あるいは自分でいいのだろうか?という葛藤だったりします。エレンを始め動かしていたのは巨人に対する憎しみで、それから現実や仲間と対峙することでちっぽけな自分を意識しながら何とかそれでも進んで行こうとする感覚で描かれています。ここがリアルで共感のできる部分なのかも知れません。そういった主人公が世界を切り開いていくため、だから善悪というのが簡単には明らかにならず、ある意味で泥臭さだったり仕方なさみたいなものが多く、また仲間の助けも多く必要になってきます。


戦争を描いているものは多くありますが進撃の巨人は残虐をねちねち描くのでもなく強い主人公の爽快感を描くのでもなく、リアルさとそれから主人公達の感情の絡み合い、で、人間というのがこちらの社会の縮図のように迫ってくる感じがあると思います。仲間たちという社会、それからその上にある巨人のいる世界、その先の、見たことのない本当の世界。すべてと関わり合い知ることによりそれがのちに徐々にひっくり返されてゆき価値感は揺らいでしまいます。
という感じ。わたしは「アルミンが死んだ」と聞いてたのでショックだったけど集中して読んでいたころからはだいぶ時間が経っていたので思い留まってたのですがあんなふうになってたんですね。よかったです。

 


ユミル以降


ユミルのあたりで巨人というのはもしかすると元人間なのかも知れない、というストーリーが描かれ始めましたが今明かされたのは巨人というのは流刑として捕らえられた迫害される民族の変わり果てた姿だったという事。その巨人の力は今は特別な支配力としてほぼエレンを含む限られた人間の手に渡り、支配すること、される事を両側面から描かれるのを見ているという感じです。例えばそこで描かれているのは、戦争をしている両者は置かれている立場が違うだけで、中にいる人間というのがさまざま色んな人がいて、そこはやった、やられた、悪も正義も色付けして判断できないということが語られていますが、これは手塚治虫どろろでもある日突然二つに分かたれてしまった村としても描かれていて、戦争というものの本質にはそういう性質があるのだと思います。
なかなかそれは難しい事だと思います。人間というのは個別の記憶を持っていて、それは例えば全く同じだったとしても身体や性質という器官を通して「出てくる」段階ではまた別物になったりもするものなんだなあとも思ったし、なかなか分かち合うの方向に行かないのは身を守るだったり何かを進ませたいだったりする感情が強くなっていると尚更そうです。戦争それ自体はどちらかから辞める事がなければずっと続いていくのかもしれない。子どもの喧嘩なんかを見ていてもそう思います。割り切れないもの、っていうのはあるのかもしれないですね。負けるのは本当に難しいことです。負けても本来大切なものは死なないと思えることが何か別次元の強さとしてあることも、さまざまな価値観が存在しても良い世界でなければ難くなってしまうと思います。


そんな中エレンがどんな風に変わったのか、これから出てくるストーリーで目が離せないところだと思います。仲間のため、というのもあるし、自分のため、というのも無いわけではない。けれどライナーを通してもその信念なんていうのは立派なものじゃないんだというのを突きつけられているような気がしました。ちょっと思ったんですが、ライナーは始めいい奴だったので読んでいるこちらも葛藤がありつつ追っていたけど、あまりにも生き返り過ぎるので最後の方「いいから、もう死んでくれーーー!」って思って読んでませんでしたか?何かやっぱり主人公側に肩入れしてる部分が自分にも沢山あるんだなと思いました。全然喧嘩両成敗とかではなかった。(わたしが)

 

 

 

おわり


進撃の巨人、ゲームやスピンオフなど積極的にばしばししている印象なのですが、作品自体はずーっと同じクオリティで面白いのですごいなと思いました。ウィキペディアを見てみたらハリウッド化という情報も…

 

進撃の巨人 - Wikipedia

解説が詳しい。

 

しかしこういう物語だったり、新しいミュージックだったり、さあ読むぞと思ってもなかなか腰が重かったりするあの感覚は一体なんなのでしょうか。小説でも同じように、読めば確実に楽しめるのは分かっているのに没入するまでにある躊躇いみたいなおっくう、みたいな感覚…プール入って仕舞えば楽しいのに、入るまでは体が冷たいし、慣れないうちの拒否反応というんでしょうか。
現世止まりたいみたいな。

今回も無料という事で即、読もう!!!と思ったのに朝からそれが億劫で仕方なかった。本当にどうしようもない人間だな。

 

しかし「立体起動装置」なんてよく考え付くな…と思いませんか?戦車でもなく、武器でもなく、人類が巨人を倒すためには立体起動装置でうなじを切り落とすしかなかった、というところに進撃の巨人の序盤のストーリーはぎゅっと詰められていると思います。

直木賞」って…

 

今日、書店でたまたま直木賞の作品を何冊か目にした。わたしは知らなかったのだけど、小説界では「直木賞はアガリ」という説があるらしく、今までなんとなく目立っている芥川賞の方に目が行っては「なんでこーゆーのが、賞なの?」と思ったりしていたのがやっと腑に落ちるようになってきた。わたしが目にしたのは、「下町ロケット」「対岸の彼女」「プラナリア」「利休にたずねよ」…等。で、最近本を読むようになってやっとわかったのが芥川賞は現代の若者の風俗を性とか流行込みで書いた新人賞的、もしくは小説界の宣伝の側面の大きなもので、直木賞というのはもうちょっとベテランの「これぞ」的な賞なのだと思った。読書はじめの人は、こういうのを読むと良いのかも知れない。どれも一度読むと何か全体的な思想がひとつの日本の傾向だったり、性だったり、概念としてわりとこころに深く残されるようなものが多い。他にも山本周五郎賞だったり三島賞だったり色々とあり、正直よく分からない。小説の特殊な所は色々とあるが、とにかく賞、多いなと思う。

最近これを読みまくっていたので疲れてきて今はあまり関係ない本を読んでいる。小説が、こってりとしたステーキだとしたら、それ以外のエッセイや旅行、料理についての本はそれを取り囲むようなものだったりスープだったりするのかもしれない。

 

 

性とか、人前で言わないこと

 

わたしも何かを書いたりはしているけど、性のことについてはもはや「書かない」が不自然なことのように思えている。しかし、そもそも、小説という立ち位置は「それぞれの個別の生」を自由気ままに書き表すものだと思うので、あらかじめからして「万人受け」するものではないのではないか、とわたしは思い始めた。つまり、色々な人がいる。そういう人が、世間では仲間を見つけられなかったり秘密を人に言えないまま生きている。そういうとき、小説界という平に慣らされていないままのさまざまな在り方が、剥き出しにあってもよいということが人を救うし、それはさらりと皆が皆飲み込めなくて当然なのではないかとわたしは思った。その「お前のこと全員がわからなくて当たり前」についてはもうちょっと誰かが大きい声で言ってくれないかと思う。いや、でも、こういう実力主義の世界はずっとずっと拓けていて自由なのだと言ってよい。だからもともと当たり前の理解、それから覚悟はだいたいの作家はあるのだと思う。

「人には分からないだろうけど自分にめちゃくちゃ合うもの」を探し当てるのだって小説というものじゃないか、ていうかそういう意味で、浅めの反論にムキになるのもどうかと思うし、反論に気を付けて皆に受けるようにあらかじめ気をつけるのも違うのではないかとふと思った。

 

で、性のことだけれどこれはまさに「個別のもの」だと思う。こういう匂い立つ欲求の部分に対しては一部のうるさく言いたい人が多いけれど、それこそわたしたちが書く前に皆、一様に抱く第一感情の典型例だと思えばよいのである。それをまさに誰かが、自分の代わりにその場で演じてくれているのである。で、書く側はそうであっても紆余曲折があり自分なりの何か理由を見つけたから書こうとするのだとしたら、そういう他人の意見があることは理解出来てもそのために辞める必要はなくなる。何の考えも持たずに皆と足並みそろえてやったことではないのであれば、意見に対してはもうあらかじめ出す前に耐性を付けておくべきだろう。こう言うことに関しては何の考えもなく皆やってるからやってるみたいな人はかなり多い。

 

 

パロディはやめた方がいい

 

あと、思ったのは、パロディについて。これに対しては色々な形があると思う。カバー…だったりオマージュ…引用…思想を継ぐ…で、わたしは中川家のように反意を描くというのだってあっても良いと思う。ただしそれには勇気がいるし、それがくだらなかったら見向きされないだろうから、実際自信がある人にしかできないと思う。でもyoutubeだったり芸人だったりがする単純なパロディが本当につまらないなと最近見ていて思うのは、そこに何の思想も何の工夫も無いからだと思う。子供がテレビ見て、ピコ太郎のものまねしているのと同じ。子どもだったらかわいいけど、大人だったら「僕が本当にやりたいこと」がかなり伝わってくるのでもう本当にやめて欲しい。

それをやる前に、まずはその元の相手がどれほどの熱量と時間を込めているのか、ぱっと見であっても少しくらいでも理解して欲しいという事である。わたしからでも見て分かる他人の努力(他人のもの)のパロディをどうしてやってしまうのかよくわからない。

 

 

芭蕉高浜虚子

 

俳句の松尾芭蕉が気になって句集みたいな本を買って見た。それから芭蕉の立ち位置が気になり、高浜虚子だったり手持ちにある本を探ってみたのだけど、高浜虚子がウルサ過ぎてもう二度と読む気が無くなってしまった。たしかに高浜虚子の句は工夫があって面白みがあると思う。けどこの本を読むとそういううるさみというのは句にも込められてしまうと思った。で、読んでいると偉人、それから俳句界において意義のある人について(その言い方もどうかと思うが…)高浜虚子の視点からいろいろと書かれていて、全体の思想の変化も書かれているのだけど、こういうのを読む前に句集を読み自分の好きな傾向を知ってからでよいのかもしれないと思った。作るときの世界と「歴史」というのは別に交わらなくていいのかもしれないなと思ってしまったのである。何故、こういう世界ではそれがまず最初に語るべき事柄で、必要性のあることで、それに対して例えば自然科学だったりモノ、コト、世界についてはぜんぜん話さないのだろうか。わたしはこの部分は未だ何も知らないのに勝手に色付けられそうだという飲み込めなさを感じてしまう。理解というのは自分でするしかないものでは。そして連句つくるのに数時間かかったとしてもそのときに歴史のことなんて少しも考えていない。音楽、小説、詩、皆すべてそういうものだと思う。寄生獣スラムダンクがすごかったとて彼らは理事とか社長なんてしていないし皆が一様に目標にするべきと言うのも違うと思う。その場限りの賞賛が次の日は消えてしまうことを皆が知っている。それに、歴史を変えることをその一人や限られたグループががやったんじゃない。思想はつねに誰かの複数の手により変えられているじゃないか。なのに、何故、短歌や俳句はいつもこうなのだろうか。

 

 

まあ、不思議なことである。わたしの思うに、皆つねに人間とか人間関係に興味持ち過ぎだと思う。