名前を付ける

本のことを書いてあるブログ

いま、手を付け始め…は安部公房「壁」それから筒井康隆「旅のラゴス」。

 

最近どうしても気になるのが自分の人生の始末の付け方。これから年を取り、もう何もかもが良くなるような期間は終わっただろう。例えば、俳句、短歌については良くなることもあるかもしれない。文章も、そういった、単純でない色々なことを関連させたり複雑化させていく作業ついては「年をとる」は良い現れ方、進化をするのだと本で読んだことはある。反対に瞬発力や、そもそものエネルギー、ポテンシャルなんかはどんどん落ちていくと思う。なので、もう若さとか元気、キャラクターに頼ったことはどんどん出来なくなっていくと思う。

 

最近思うのは「純粋な読書という行為を邪魔すること」に対して、法的な措置を取ってほしいということ。著作権、盗作、案のコピペ等など、ほか表現するという積極的な行為についてもそうで、もっと「表現者、純粋な行為を守る」というのがあってもよいような気がする。小室さんが引退宣言をした時、私はそう思った。生活にあることと、表現行為は関係がないと思う。その辺を混同してタレントのように活動している人もいるけれど、でも小室さんは一時代を築いた人だし、それは誰にでもできることではないと思う。仮面ライダービルドの主題歌に、わたしは当時けっこう元気付けられていたし、高校の頃のこととか思い出したり楽しませて貰ったのであれは残念だった。

けど、なかなか難しく、問題が起きた時に「自分のせい」と考える心の脆さはきっと彼の創作活動にも直結していたのだろうし、関係ねえよと言ってしまえる強さがあるのは普通の人ならではなのかもしれない。つくる、それから現実のことを切り分けていく強さというか割り切り、それを両立できているというのはもはや奇跡で、滅茶苦茶強いのだと思う。そういう人はごくまれで、だから「つくる」にベースを置いてしまう弱い人というのを、もっと法で守られてもいいような気がしてしまった。

 

こういった、目に見えないことはまだまだ法整備されていないのかもしれない。目に見えないことを起こしていくことって表現行為そのもので、けれどわたしの目から見ているものは誰かの努力によって起こされたようなもう在るものを何番煎じかで表しさらに荒立てるようなことが多い。そこら辺は最早、エグ味といってもいいと思う。まるで、テレビでも見ているような感覚だ。痛みを伴わずに得られるゲームの感触、テレビ、それからうわさ話についてなら、わたしだって白黒付けてしまえる。

 

樹木希林さんの本を読んでいると「がんを患ってから考え方が変わった。死を意識するようになった」とあるけど、わたしもいつからか、死ぬことが必然だと思い始めた。死なない、と思って今日を生きているけど、人間は必ず死ぬのだ。未来、とはいうけれどそれは限りあるもので、週末のイベントを思って平日を過ごしているのと同じ感覚で、「死ぬ」に向けて「いま」を消費しているのである。何か病気、出産、それから別離を経験すると、不思議と老いる、失う、そういう消滅するに向かっている時間の流れという考え方が加わる。時間は限りあることに気がつかない人間という、その生命活動の強さ。何もかもを取り込み、自己と見なしていく傲慢さには、自分を含めて驚いてしまう。だから、病気をしてやっとそのそもそもの弱さに気が付くんだなあと思う。

 

で、そこで「余生」と言えるものを何をして生きていくのかなと考えらようになる。思うに、ここで劣等感だったり、合わない他人に構うみたいな行動は無駄なことのように思える。一時期、職場でハラスメントをしてくる人がいて、そういう時期はその人のことしか考えられないみたいな期間は結構あったけれど、そういう逃げられない場所でないのであれば、関わりのない他人に目を向け続けるというのは限りある時間の中ですることとしては無駄でしかない。

そう、結局は消去法になるのである。する、しないを自分で選択していかなければならない。