桐一葉日当たりながら落ちにけり
元朝の氷すてたり手水鉢
この後の古墳の月日椿かな
灯ともせば早そことべり灯取虫
烏飛んでそこに通草のありにけり
我を指す人の扇をにくみけり
棕櫚の花こぼれて掃くも五六日
暑に耐へて双親あるや水を打つ
月浴びて玉崩れをる噴井かな
ひらひらと深きが上の落葉かな
(高浜虚子「五百句」より引用)
気になったものをすべて書き出そうと思ったのですがこちら前半までです。
写生文(しゃせいぶん)は、写生によって物事をありのままに書こうとする文章。明治時代中期、西洋絵画由来の「写生」(スケッチ)の概念を応用して俳句・短歌の近代化を進めていた正岡子規が、同じ方法を散文にも当てはめて唱導したもので、子規・高浜虚子らによって『ホトトギス』誌を中心に発展し、近代的な日本語による散文の創出に大きな役割を担った
1900年1月からは『日本』紙に子規の文章論「叙事文」が3回にわたって掲載され、「或る景色を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず、只ありのまゝ見たるまゝに」などとして自分の求める文章像を明らかにした[7]。
高浜虚子は随筆や句集、それから辻桃子さんの書かれた本で知ったのですがちょっと癖があるというかひと時代を為した人であるせいか読んでいると疲れる部分もありました…が、句集などで出てくる高浜虚子の句を読むと、やはり面白いと感じる。
虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。そしてまた、1927年(昭和2年)、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた
Wikipediaに載っていた虚子の代表作はこちら
遠山に日の当たりたる枯野かな
春風や闘志抱きて丘に立つ
去年今年貫く棒の如きもの
波音の由井ガ濱より初電車
吾も亦紅なりとひそやかに
子規逝くや 十七日の 月明に
流れ行く大根の葉の早さかな
…ですが、わたしは虚子のなんてことのない、品詞の少ない句に惹かれます。
たとえば、
流れ行く大根の葉の早さかな
桐一葉日当たりながら落ちにけり
元朝の氷すてたり手水鉢
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ
こちらの句。簡素な表現なのですが、こういった句はものをよく観察し尽くさないとなかなか出てこないだろうなと感じます。
たとえば
桐一葉日当たりながら落ちにけり
こちらの句は一葉がひらひらくるくるとその身の軽さを感じさせ、秋の色付く陽を浴びながらゆるやかに落ちていく様子が詠まれていますが、たったひとつの葉の様子を「日当たる」という事実のみで表し、けれど言葉を工夫することでそれが表現しつくされています。
句、それから歌というのはたったひとつのシンプルなものをこんなふうに折り込もうと思い、それ以外を捨て去るから人の心にどの時代においても届くし、それから上手い人が読むことでそのシンプルな言葉が広がりを持ちいつまでも心の中に映像として響き続ける。
そんなわけで、凝りまくっているわけではないのに面白く、匂い立つ情景の含まれる高浜虚子の技巧の句がどこかで出てくるたび「おっ…」と思うわたしなのでした。