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本のことを書いてあるブログ

高浜虚子「五百句」をふたたび読む(後半)

白牡丹といふといへども紅ほのか



鶯や洞然として春霞

洞然(とうぜん)とは - コトバンク



庭の石ほと動き湧く清水かな



雨風や最も萩をいたましむ



自らの老好もしや菊に立つ



ものの芽のあらはれ出でし大事かな



くづをれて団扇づかひの老尼かな



清閑にあれば月出づおのづから

清閑(セイカン)とは - コトバンク



仲秋や月明らかに人老いし



遅桜なほもたづねて奥の宮



川船のぎいとまがるやよし雀



秋風に草の一葉のうちふるふ



流れ行く大根の葉の早さかな



後ろ手に人渉る春の水

徒渡り(かちわたり)の意味 - goo国語辞書
知らなかった!



闇なれば衣まとふ間の裸かな



花の雨降りこめられて謡かな



風鈴の音に住まひをる女かな



顔抱いて犬が寝ており菊の宿



物指で脊かくことも日短



白雲のほとおこり消ゆ花の雨



何となく人に親しや初嵐



川を見るバナナの皮は手より落ち



神虜今鳩をたたしむ初詣



旅荷物しまひ終わりて花にひま






気になった句…

自らの老好もしや菊に立つ

ここら辺は虚子が自らの老について読んでいる句が所々にありました。「好もしや」となってゆるやかな気持ちを読んでいるのが珍しかったので選びました。

くづをれて団扇づかひの老尼かな

こちらも老についての句。「くづをれて」の古語が老尼のたよりなさ、それから老にかかるまでの動きが艶めかしい表現となっています。
ひらがな使いが多く見られることにすこしの驚きが。

仲秋や月明らかに人老いし

こちらも老…ですがこちらはまさに写実で、そのままに見えてしまう感じが詠まれています。

多分。

写実、といえどもこんなふうに見る人の心や意思も折り込まれ、明らかになっていくのが句や歌なんですね。さじ加減がなかなか難しいです。


白牡丹といふといへども紅ほのか

こちらは有名ですよね。俳句らしい諧謔がほの見える句です。

高浜虚子の俳句について教えてください!!「白牡丹といふといへども紅... - Yahoo!知恵袋
笑ってしまった。

【白牡丹といふといへども紅ほのか】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!
とても分かりやすい紹介記事です。
これを読んでわかったこと→「紅白の色の対比である」「紅ほのかのあとの言葉を省略することでふくらみを持たせている」

闇なれば衣まとふ間の裸かな

闇にうかぶような裸がこちらも簡素な言葉遣いで表現されています。「ほのひかる」「うつくしき」など余計な言葉を入れなくても裸が闇で光る情景が見えてきます。

何となく人に親しや初嵐

初嵐ー秋のはじめにふく嵐
嵐の中にある人の心もとなさでしょうか。大雨、大嵐、大雪のときは何故だか人があつまって「すっごい天気だね」というような感じでしょうか。


川を見るバナナの皮は手より落ち

こちら辻桃子さんも紹介されていたような気がしますが「バナナ」…!唐突だったので気になりました。バナナって南国の感じが大きいので読むの難しいですね。バナナを修飾してないのがかえってよいのかもしれない。


旅荷物しまひ終わりて花にひま

「花にひま」こちらも平仮名使いになっています。誰もが経験する何もすることのない時間にふと視線を花に休ませる、そんな感じなのでしょうか。


後ろ手に人渉る春の水

すみません、こちらは自分の名前が入ってるので気になりました。「渉る」で「かちわたる」と読むそうです。後ろ手、というところが春に実はある怪しさ、大きい動きなのだけれど遠いような感覚を表現しているようで良いなと思いました。


多分。



個人の感想なので「ふーん」程度で読んでいただければ。


今回記事をいろいろ読んでて俳句に対して「写実って当たり前のことじゃん」という感想があったのですがたしかに、当たり前のことをやってるんだよなと感じた。たとえば写実を極めていって上手すぎる絵画が本物にしか見えないとなったとき、ある時姉が「じゃあ写真でいいじゃん」と言ったことがあった。たしかに…もし「過程」を楽しんだり裏のストーリーを知ろうとする気持ちがなければそれはもう、写真でいいだろと思う人も居るし目の前にあるのは当たり前のことでしかないのである。それは紀元前紀元以後のようなことわりでもって理解の方が変わってしまう。
本当「大人」って余裕がないとやってられない部分だよなと思いました。最終的な答えとしてすべてを包み込む…それでいいんじゃないか。