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本のことを書いてあるブログ

短歌について

こんにちは。
こちらは今年雪が少ないと言われていますがたしかに雪少な目です。

最近(先月の26日にブログを更新して以後)は短歌、俳句の本ばかりを読んでいました。短歌を作ったりしている別アカウントの方(@Mimimibi2)はあまり呟けていないのですが日常生活の中でだったりスマホに書きつけたりして短歌には日常的に触れていたりします。

小説、詩、俳句も書くのですがわたしはどうしても短歌が好きみたいです。この「短歌好き」という気持ち、どこかで言ってはきたのですが多分「盆栽好き」と似ていると思います。小さくまとめられた箱庭に妙な感慨を抱くのです。はじめは韻律が〜とか流派が〜とかいろいろと考えたりもしていましたが単純に、手で取って愛でたい的な気持ちはあると思います。何かすることに対する回路みたいのが一度自分の中に出来上がってしまうとなにか他のものに替えがたい郷愁でもないけれどエモーションというか、特別な思い入れが出来上がってしまってますね。

この気持ち、いまたまに演歌など耳にするときや活字中毒に対して起こる感じにも似ていて、たとえば「日本海の白波が我に大きくうねる」「そこに一匹のかもめが飛んでくる」「かもめは、かあさんを呼んでいる」みたいな字、小学生が見てもフーンとしか思わないかも知れないけど何かそこにメロディが入り込むことで物語性、血潮、待つと待たれるの気持ちのような日本人くささを感じた自分が、郷土臭だったり国民的な礎に強度の共感が、血潮みたいにじわじわと沸き起こってくるしてくる…気がしていて、それって、こう感じる「回路」がないときは起こりもしない共感だったろうなと思います。演歌って、印象ですが「波」とか「風」を何度も繰り返してるだけの部分も多いイメージなんですがいまやその繰り返しや言葉少なさにむしろ日本的情緒があるような気さえしてくる。この部分、昔はまったく分からなかったので、その回路は加齢とともに多分出来てきたのだなと最近は思ったりしている。
あとこれも以前から言っているのですがこの回路、人の紹介や導きによって出来ることも多いような気がしてます。いままでどれだけの本やCMで触れてもなにも思わなかったのに、よい指南書に触れて以後どっぷりとはまり込むということは多くありました。






うつ伏せの器に鱈の雪舞ひて






さらには一句読みました。

お正月ももう終わりですね。