名前を付ける

本のことを書いてあるブログ

遠藤周作「海と毒薬」を読みました

罪との葛藤よりも、埋没させられる「事実」の性質

こちら、読み終えましたが、あらすじに書いてあるような生体実験をテーマにしながらも、主には大学病院の人間関係などが描かれていました。巻末には小説ではなく実際にあった外国人捕虜の生体解剖事件についても説明されています。生体解剖や人の死、その感情にはそれ程衝撃な内容は書かれておらず、ただ人がそこで淡々と人間関係を行っているような印象だった。多分、この部分よりも大部分成功するはずだった女性の手術中の死の方がショックで、考えさせられる。


あとがきにもあったけれど、そのメインの「死、殺人」の部分は主には人間関係に置き換えられているのである。最後自体を運ぶシーンも看護師同士の軋轢の方を描かれており死に接したというショックについては書かれていない。多分ここはそれよりもそういったことがあり、それが埋没されてしまうかのような事実をすくいとるところなのかもしれない。執刀医も、外国人捕虜の死(殺人だが)から何かを想起されはしないか何度も考えようとし、結局は何も浮かんでこないというシーンがある。自分たちさえ毎日ばたばたと死んでいく中、敵国の、捕虜の死にはリアル感がともなわない。
それは病院内の医師の外国人妻に対する蔑視的な感情でも表現されている。異物、違和感に対する排除するかのような感情。これが根底にずっとあるが、それは自身が満たされないというばかりの理由ではないだろう。

ここで描かれるような嫉妬や怨念、それは多かれ少なかれ誰もが感じることでもあるだろう。人は自分の知り得ない部分や他人に本来共感を抱かないものなのである。その途方もない距離、持ち得ないものに感じる感情。



「恥」は感じるが、「罪」の意識を持たない日本人の性質

あとがきであったのだけど「恥は感じるが、罪は感じない日本人の心理」とあり、なるほどと感じる。日本人にとって罪=世間の中でそう見做されることだから、世間(職場など)がそうでないと判断しない限り罪にはならない。死んだ捕虜の死体、それ以前の患者が死んでしまった時も、それにたいして口をつぐむ事でなかったことになるというシーンは事実の在り方のように思えた。こういう黙秘させられる場で、真実を明らかにしたい、言いたいと思うとしたら、それは一体何の働きになるのだろう。ひとつの世間ともうひとつの世間を折り合わせようとするとき、人一人分以上の何か力が働くようにも思えた。
そう考えると一人の心の動きがその場のひとつを担っているのかも知れない。
色々な人が居る。



共感について

主人公の勝呂氏が怯えていたのは自身の気が弱かったためという印象がしたので、実際自分がこういった場面に遭遇したとしたらどう感じるだろうと思った。人を殺すことに対して恐ろしさを感じ得ないということは正直、なさそうだけれどこの中に書かれていた作文捏造だったり嘘に関する罪悪感の無さについては普通にあるのかもなと思った。むしろ、ないという前提が潔癖である気がした。人間もそうだけど、子どもっていう生きものも相当にズル賢いと自分は思っている。あいつら、人を値踏みするし、大人が気をつけてないと何に気を使って気を使わなくていいかみたいのも全部真似してくる。子どもは生まれた時から=善では絶対にないと思う。自然状態では猿だと思う。むしろ世間のルールが善なんである。
「共感」という感情は、結構あいまいなもので、自分の中でも相手によってやシーンにとって湧くわかないはあるし、当然こう感じるべきというときにそれを感じないという経験は多分案外普通にあると思う。必然的な愛情、同情、そういったものは何か個別の道すじがあって、どこかで引っかかっているとあたりまえのようには湧かなかったりすることもあるものだと思う。自分自身もこの辺については「自分ってへんなの?」と考えてみたことはある。耐久力の差のような部分もあるだろうし、自分の場合特に若過ぎて場当たり的に過ぎてったみたいな事は多くある…
あとはもう危険だとか考えても考えが追いつかないみたいな時は唐突に「切り替えよう」みたいな感じになる事もあるように思う。そうだと思えばそれの連続でもあるのかもしれない。事実があまりに大きすぎる場合、人は思考停止してしまう。

人が当たり前のように死んでいき、人と人とも思わない、人間同士で差別をする事実、この人が人間性を積極的に失い欲に走るという摂理は、した側ではなくされた側からもし描けばもっと沢山の書き尽くされないような事が多くあるだろう。こういうものを読んでいるときは自ずとその点について考えさせられる。

多くはその人の感じた抽出によるのだと思うとこれは事実を語ろうとする者に責任が生じるような事だろう。
それから何かこれは僕の見てきた事実とは違うという感覚がまた何かを書かせるのだろうなとも思った。


誰かに共感をする為に、多分自分と相手は同一だという思い込みが必要だと思うし、それができない場合は頑なに自分達は全く違うと思い込む力が働いているのだと思う。

自分は「思っている」だけの状態とそれを行動や言葉にして誰も聞いてないのに積極的に言ってくる人は違うし、後者は戦争が物凄く好きなんだなという印象はある。


文学の掘りたいという特質は市民感情から遠い


話が逸れるが文学の人はそういうのが結構好きだ。和を保とうという働きをすれば「いいトコとる」という印象になるようだし、もっと掘りまくるためには常に問題意識を持っていたいみたいな、それが賢いのだみたいな雰囲気はそれをしないということが愚と言われること同様にバカバカしいとずっと思っていた。
結局は何かを言うって事自体が「自分だけいいとこに乗っかって喚く」ことと他ならないと自分は思う。メタで書こうとするとどこから発せられるのか、それは結局自分の口から、自分の価値観で、人と自分を見比べることになる。その言葉が持つ異常性を知っている人でないと公平に切り分けることなんて出来ない。だから色々考えた結果、自分内のことしか書けなくなってくるのだ。
こういう考え方(掘っていたい、問題が沢山あって然るべき)は世間一般とはすごくズレていると思う。
人ならば、せめてその中の何か、あるいは、自分がしてしまうしょうもなさに傷付いてくれという気がする。そういうものを廃した自分勝手をなぜ、個人的範疇で読むはずの本という存在が忘れてしまうのだろうか。


多くの意図的な「醜い」描写があったのでたびたび読むのがツラくなった。それはなんとなくほの見える、人が健全に自己を保つための取捨選択のように見えたからである。「今の世の中は生き残った人たちのための物語」という言葉は真理をついているだろう。大切なのはそういった恣意が常に働いていることを思いつつ読むことかもしれない。書き手は神でも裁判官でも決してないのである。