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本のことを書いてあるブログ

角田光代「笹の舟で海をわたる」を読みました

「不快感を覚える。あのときの飢餓感を思い出すのである。私もきっとこんなふうな顔でものを食べているに違いないと佐織は思う。必死すぎてうつろな顔で。」


笹の舟で海をわたる (新潮文庫)

笹の舟で海をわたる (新潮文庫)

  • 作者:角田 光代
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/06/28
  • メディア: 文庫

覚えていない関係と友人

主人公の佐織は、ある時風美子という女性と出会います。その女性が言うには、あなたは自分が疎開していた先で会った同胞で、自分に親切にしてくれた心優しい女性だったと。一方で佐織には、そのような少女と関わった記憶も、親切にした記憶もありません。物語の根元にあるのは一人と、もう一方のこの根本的な認識のずれで、その後も幾度となく佐織は「そんなこと、覚えていない」と繰り返します。対して風美子は忘却を知らないのかといえるほど鮮明な記憶があり、佐織はその後も疎開先の生活を風美子を通して何度も思い出すのですが、いかに自分や皆がその過酷な体験を改変、忘却していたかに気づかされます。はてはそれを人はねつ造しているのではないかと思えるほどの変遷をそれぞれに経て生きていたという事実が見えてきます。

佐織はその中でもこの違和感、ズレについて現実と折り合いをつけるということをしない語り手で、「覚えていない」それから、現実にすり合わせているたくましい人を見ながら「吐き気がする」などと述べていきます。焦点が当てられるのはその正直さかもしれません。佐織は疎開の記憶、同窓会で会った人、周囲の人たちとの違和感を感じながら生き続けます。

物語の二人は個性的で自立心のある風美子という女性の、一見距離が近すぎるような女性同士の関わりに手を引かれるような形で、奇妙に人生を密着させて過ごして行きます。

ホラーにもなり得る女性というもの

個性的な女性風美子と、おとなしく、行動的ではない性格の佐織はまったく逆の気質を持っているといえます。その二人の単なる友人関係が変わるのは、佐織が結婚し、その夫の兄弟と風美子が結婚し、義理の姉妹となったあたりから。佐織が結婚するときも風美子はそこに居り、何かにつけて人生へと潜り込んでくるのですが、普通なら友人の夫の兄弟と結婚するなどなかなか選択できないことだと思うのですが。
…この辺は、はっきり言ってホラーなのでわたしは一度怖すぎたので一度この本を閉じてしまいまして…
こういう、ものすごい女性というのは、物語だけではなく社会には沢山います。だいたい一部署一人くらいはいますね。以前そのあたりを読んでいる時現実に存在していた「もの凄い女性」と重なってしまったためにうっ、、、!となってしまったんだと思います。

個人的意見ですがわたしの思うに、女性っていうのはどんなに良い人であっても近くにいすぎると駄目になるような気がします。この小説に常に感じ続けるのは「正当な距離感」は幻想なのかということでもあり、風美子というのはそれを積極的にこわし、佐織はそれを拒否しないまま助長するような役割でも存在しています。わたしがうっすらと感じたのは結局、優越なんですよね…コントロール出来そうな人と一緒にいたい人っていうのは、ええ居ますね。わたしはそんなもの正当な人間関係と思ってないので無視してしまいますが、その辺の見えそうで見えない構造については言及されないまま、佐織などは風美子とはまったく違う視点に立っていることを主張しつつ、結婚や子どももいる優越、優位性については一切述べません。そんなわけで…ある意味では意地悪く風美子という存在がこんなにも浮き彫りにされてしまいます。以前見たオードリー若林と南キャン山ちゃんの「山里関節祭り」みたいですねこれは。

「山里関節祭り」は「もっとたりないふたり」放送第1回の漫才で若林が突如披露した音頭。山里が実は常に受け身で、「イジられてるのではなく、イジらせている」ということをわかりやすく説明するため、「マウントをとらせて下から関節を決める」と例え、「下から関節山里です」「はーどっこいしょーどっこいしょ」と踊って見せた。

たりふたJAMが「山里関節祭り」に決定 - お笑いナタリー

天才じゃないですか…わかばやしさん。
騙されないでください!人生に勝ち負けなどありません!!

二人の人生はそれから疎開先での記憶、それが結婚を選択するあたりから家庭をもうけ、子どもが成長してゆくという一生涯にかけて壮大な流れで描かれるのですが、女性においては、佐織と風美子の距離、それから風美子と娘の距離が深く描かれています。風美子はなんと、夫だけではなく子どもの関係にまで入り込んで来るのですね。「子どもをちょうだい」この言葉を何故風美子は発することができたのでしょうか。
一方で佐織は、忘れていた疎開先の記憶を風美子と関わることで思い出して行きます。風美子は子ども時代から目立つ存在だったのでしょう、いわれのないいじめを同級生だけでなく大人からも受けていたと主張し、佐織はそんなことがあったかどうかも把握できないまま、自らがいじめていたタエという少女をぼんやりと思い出します。皆、同じだった。誰か一人だけがそんなふうにいじめられることなどなかった。風美子は記憶をねつ造しているのではないか…(それについては後半払拭もされています。理解というのは大変な作業なのだと思います)
いじめていた、その記憶は佐織を低く思い場所から掴み、その逃れたさがいまに伴って現れて来ます。現実で今いじめをうけている娘を受け入れることができない自分の意識はまだ疎開先での厳しい生活にあるのではないかと考えもします。
やはり、理解されたい、それが先に立つことを人はなかなか避けられない。けれど、考え、意識することで少しずつ変わっていくのではないでしょうか。

やはり「それ」を語りたくなる…

で、この「無意識」で距離が近くなるという部分…すごくよくわかるのですが、キラキラしている人、目立っている人、そういう人やそういう状況にいる人というのは行動的で、いろんな在り方がそもそも、大振りになっているため、細やかなところや、気にしいの人の気持ちに気づかないことはよくあります。それは、仕方のないことなのかもしれないですし、それが「いやって言うと変えてくれる」もあるだろうし、一方で「ほんとにいや」に改悪されていく瞬間も、きっとあるし、いや、これはどちらの立場も避けられない部分だと感じます。皆立っている場所も見えている景色も違うわけですから。知らないから知ろうか、その視点があるかないかでだいぶ違います。上司なども、意見して変わってくれる人はその前の行動が大振りだったとしてもわたしは、かなり良い人だなあと思います。

この小説の中では女というものが普段、自分の属性から周りを見わたし、レスポンスによって存在をはかり、その後アイデンティティを気にし、互いを比べて無意識のマウントを取ったり取られたりしているのだなあというのがすごく丸見えに描かれています。その部分がこの小説の面白みで、佐織は決して、断罪や意味で括ることをなかなかしません。あるのは感情の吐露や事実で、最後の方、風美子という人間について述べる部分がありますが、そこに行き着くまでは常に「眺めている存在」としてあります。

佐織という主人公はあまり、希望や意見のようなものは述べません。それから、劣等感…とまでは言いませんが世間に対する何か遠慮のようなものがふかぶかとある。ここが風美子とは違う部分で、こういったうっすらと感じてはいる喜怒哀楽に行くつく前の感情は、おそらくそのままでなく何かに置き換えて発しがちな部分で、そこを書き尽くされている気持ちよさみたいのはあります。そこが実は強い、という。

家庭内での関係性、子どものいない風美子の落とし所も実はある

焦点が当てられているのは佐織とその夫温彦、それから風美子の関係。それと、佐織の子ども二人と、風美子との関係。他にもあるのですが、わたしはこの部分が気になりました。
佐織は家庭の中にもごく自然に入り込んでくる風美子に違和感を感じ続けます。まったく違うタイプのこの二人がどんなふうに結びつくのか…と思ってもしまいますが、とにかく、〈風美子が来る!〉という感じです。旅行へ行ったり、夕食を取ったり、うんぬん…この辺は理解しがたい人も多いのでは。
自分にはないものを、友人とともに経験することで体験に変えていくようにも映る。その部分にも佐織は何度も違和感を感じ続けます。その当然、ていう感覚。親切、愛情豊かだといえばそうでもあるのですが。途中佐織が「わたしの人生、まるで風美子が形作っていった人生だったように思う」というようなことを、風美子の夫と話します。こういう個性的な人というのは、良くも悪くも人に影響を与えるのです。
(あああ…もうこれは、もっとひどい展開になるぞ…)という流れが幾多ありながらも、すれすれでずっと描かれて行きます。角田さんの体幹の強さ…それこそ浮気だったり、略奪だったりというエンタメでありがちなひどい事件というのは起こりません。あるのは佐織側から見たその風美子という人間のスゴみ…風美子は風美子で、子どもを授からないため、もしかすると佐織に対して抱える感情などもあったのかもしれませんが、持ち前の明るさでその辺は表には出てこず、佐織の娘を受け入れる存在としても居たりします。

風美子は義母と折り合いが悪く、常に悪口を浴びせられて過ごしていたという過去もあります。その後、義母が死にますが、二人は相変わらず仲良く、家庭ぐるみで関わり続けます。活動的な風美子は常に人の視線を浴び、会話の中心になるため、佐織は一時期夫との仲を疑ったりもします。それから、子どもと佐織、風美子との関係の部分は読み応えがあります。この子育ての部分に来ると、やはり男性という存在が希薄になってしまうところ、これってひとつの真実だよなあと思うのですよね。冠婚葬祭、それから育児の中ではこういった細やかな女性の感情線が常にうねうねと交差し合い、影響を与え合っている。
佐織は息子とは仲がよいのですが娘とは折り合いが悪く、反抗的な娘のことをはじめから可愛いと思えません。
自分の子ども(あるいは家族)に対して折り合いをつけながら生きていくというのは決して美学や割り切れるものではなく、なかなかこう正直に書ききれる部分ではないと思います。毎日のことですからね。子育てに関する劣等感、これは人間関係にも通じていて、自分のことをどうしても好きになってくれない存在、これが人生上にはどうしても出てくる時期があると思います。その相手が、日常から切り離せないとき。その相手が、自分ではない周りとなら、上手くやっているのを見たとき。これは、劣等感をどうしても感じてしまう場面なのではないでしょうか。佐織は、娘に対して複雑な感情を持ちながらも、風美子に対してその娘と上手くやって行けているという屈辱を味わい続けています。それから、一方で息子は、心優しく品のある子として可愛がり育てていて、ある日同性愛者だったということを知ります。その部分を受け入れるかどうかは人にもよると思いますが、佐織はその事実をなかなか受けいれられません。これは時代設定が今よりも昔ということもあるのだと思います。

そのように、いわゆるエンタメ、大衆小説にあるようなハッピーエンドや大転換があったり、良い人生を得られたりするのでもありません。中に出てくるひとつのテーマとして「因果応報というのが人生に報いるのか」というのもあります。例えば佐織が疎開先でいじめを受け、さらには加担する方にもいた事実があり、それを何か人生につきまとう原罪の意識についても書かれています。佐織の人生は、誰かと強烈にわかりあい、許し合うというドラマはそれほど描かれていません。〈良いことも悪いこともただ、そこにある〉そう描かれているとおり、それは誰もが実際には逃れることのできない事実でもあります。

それから人生は終局へと向かって行きます。家を建て直し、その後夫が亡くなり、自分の終の住処を佐織は購入します。あくまでそれは理想などではなく、限りなく事実に近い部分としてここに置かれていて、その改変をしないというのが角田光代さんの強みなのだと思います。
わたしは小説は途中で投げ出すことが多いのですが最後まで読めました。遠慮なく書かれている分、けれどどの人物に共感するか、というのが大きく別れそうな小説なため、なかなか興味深いと思ってしまいます。


何か本当にここまで書くのか…というのに尽きる、人間というのは言いたさでも理想の追求でもまぼろしでもない、人が、人を見ながら人でありながら表現し尽くす、そういうエネルギーを作家は発している、そう感じるような小説でした。