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本のことを書いてあるブログ

王妃マリー・アントワネット上下巻/遠藤周作

王妃マリー・アントワネット遠藤周作

 

ネタバレあります。

 

読み終えました。有名なマリーアントワネットの少女時代から断頭台で処刑されるまでの人生を、もう一人の少女マルグリットというマリーアントワネットによく似た姿をした身分の低い出の少女の視点や王族の人間関係などを通して語られる、上下巻の長編です。

 

遠藤周作の小説は若い男女の機微だったり、駆け引きについて語られている場面も多くあるという印象ですが、この話もまず二人の女性が男性との関わりを持つ章から始まります。

 

あらすじ(上巻)

豪華絢爛な生活をし、人々からの羨望も集めてはいるけれど、貴族の派閥や利害関係にうまく立ち回ることができず、女性としても成長しきらないアントワネット。彼女は夫とも友人とも心の繋がりを得られず、寂しさを埋め合わせるために遊びや散財に走ります。もう一方の少女マルグリットは孤児院出身で、大きくなってからは生活のために体を売り、そして買われるという経験を経て自らを大切に一人の女性の権利として扱われることを知らないまま、それから生命、安全の危機そのものを脅かされ搾取されているという恨み、また這い上がることは決して出来ないという報われなさを特権階級への根強い憎しみとして募らせていきます。

この「虐げられていた」という憎しみは国民の革命、暴徒化へと繋がる根本的な感情のようです。国民の貧困の理由がそれひとつとは限らなくとも、ひとつの象徴としてマリーアントワネットというのはあまりにも分かりやすい立場にいたことから、自身の知らないままに国民全体からあまりにも大きな憎しみを注がれることになります。ここに小説の大きな論点があるようでした。

 

二人ともある意味では異性からは幸福感というものを得られないという共通する点を抱きながら、その後も二人の生活や感覚は数々の点で対比されて語られていきます。

 

アントワネットというと「パンがなければお菓子を食べればよい」でも有名ですが、(※アントワネット自身はこの発言はしていないとされる)上巻では傲慢というよりはあまりにも無知なあるいは無邪気な女性という形で描かれています。

マリー・アントワネット - Wikipedia

Wikipediaマリー・アントワネットより

↑これはひとつの本くらい見応えありますね。

 

 

あらすじ(下巻)

 

後半はアントワネットの母である姿、それから妻であることを通して描かれている印象でした。子供達を見守りながらも幽閉されたり、華美な生活を奪われ囚人同様の生活まで落ち込んだ中、暴徒にさらされるなど何度も命の危険に晒される場面があります。下巻は一冊通してアントワネットの幽閉と脱獄の話が多いのですが、最後に処刑されると分かっていながら、人々のつらみ、悲しみを見るのは複雑な気持ちになりました。

そんななか、容赦なく描き切る姿勢の遠藤氏の筆に引っ張られていく。

何かもう文章に無駄な部分がない。

 

 

 

 

駆け引きのこと

ちょっと野暮かもしれませんが・・・この最初の章の中で恋愛において「片一方が、もう一方を無視することで焦らされて燃え上がる」みたいなやりとりが二度ほど出てきました。こういうことって、実際に効果あるんでしょうか。実は何か、自分はこういったことを折々にやりたがる人が身近にいて、コミュニケーションがすごく取りづらくて精神的に病んだという経験があったもので気になりました。以前読んだ遠藤周作のものでは男性が落馬したのを女性が見たとき、男性は失敗した感覚を抱いたのに、かえってそれが女性の親しみを寄せるきっかけとなった、みたいなことが書かれていてへえ〜たしかに、予定調和で必ずしもいかないのが恋なんだろうなーと感じたということがあったんですが、「アントワネット」では強めの駆け引きなことが二度ほど書かれていたので気になった。思うに、こういったことはお互いの距離感を掴むのがかなり上手くないとなかなか難しいのではと感じたのである。自分の経験からして、ひとつのモラってるとしか思えなくて…

 

モデルを元に描くということ

 

こういった、実在の人物の生涯を描いたノンフィクション+フィクションという性質を持った本では、こういったものの性質のため作者の立ち位置というが気になったりもします。

アニエス修道女が処刑される間際に残したアントワネットに対する言葉「人が人を裁くのではなく、神が人を裁くのです」という部分は、度重なる革命と血生臭い戦闘で、獣の本性を丸出しにした国民に囲まれ、また革命派の自分達の利害のことしか顧みない論理に矛盾を感じたアニエスが残した言葉ではありますが、これは書く、伝えるという行為そのものにも当てはめられるような気がします。アントワネットは国民が貧しいときに無知無分別から贅沢をし、恨みを抱かれたうえで議会にかけられ、それから処刑された身ですが、自身に人間らしい部分や悩み、苦悩、それから決してなにもかも全てを手に入れられたわけではなかった(かもしれない)という事は消し去ることが出来ない、その全容込みを書く、というのはひとえに「書く」それも公平性を保って書くという気持ちを置かなければ難しいことなのだと思うのです。

そしてそれをどう感じるかということ自体は読者に受け渡すというような含みも大切のように思います。例えば、これは歴史上あったことをもとにして書かれたものですが、逆に完璧なフィクションといえども侵してはいけない領域は、もしかするとあるのでは。

下巻ではアントワネットが処刑に向かって動いていくなか、そういった作者自身の葛藤も垣間見えたような気がしました。なので後半はどういった風に描かれるのか、どんどん退廃的になる雰囲気の中そういった重苦しい感覚さえも作者とともに味わったような感覚です。死、命、人権を扱うというのは一刀両断、断罪では必ずしもいかないのだと思います。

 

そのこと込みで、Wikipediaなどにもあるアントワネットの絵画などを見るのは感慨深いものがあります。何かそれを、「転落の人生、無残な死に方」とだけ置くのはいかにも貧しく、小説やきちんとまとめられたものを読む大切さを感じます。

 

一方で、作者の感覚にもとづいた人物評やさまざまなタイプの人物が出てきてその利害が絡み合ったりする描写に引き込まれるのが歴史ものの面白い点ではあります。マリーアントワネットにも、実在する人物が様々に登場し、身分差、それから利害の違いにより立ち回り方が違うといういろいろな人というものの機微を感じ取ることが出来ます。 

 

王妃マリー・アントワネット(上)

王妃マリー・アントワネット(上)