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本のことを書いてあるブログ

ルーツを探りたいと思う欲求

ひとが、自分のルーツを探りたくなるのは自然な欲求だと思う。ひとが他のものと違うのはさまざまな精神活動をする精神世界を持っていることで、精神世界は個別のものと、もうひとつもっと大きなものに寄りかかってあるのが自然な姿なのかもしれない。人は、自分のルーツを遡ることでその精神の母体を探ろうとする。
帰属する…それは家族というものや、社会、それからときにはそれ以前にも遡って、わたしたちの欲求以前にありそうな何故うまれて何故生きようとするのかという当たり前の問いに対するわたしらしい答えをときどき知らなければならないと感じることがある

帰属したい、それを確認したい、それを探りたいとおもう感情は誰もが持つ。なぜ、ルーツを探りたくなるのかは、なぜわたしたちが思想や仲間をひたすらに増やそうとするのかということと、対局にあるように見える。そんなふうにわたしたちに日常湧いてくる感情を知りたくなった理由は多分自分と他人の擦り合わせでのなかで生まれてくると思う。自分を何処まで拡散してよいのか、自己が見えなくなりかけたとき、自分や他人を見て戸惑う。欲というのは、とめどないけれどそれは人間の根本的なすがたなんだろうか?それから、自己を発することができないときに、わたしたちはそもそも何処に帰属していたのか、していてもよいのかを知りたくなる。そういう帰属する感情をみたすためにある大きなものは宗教だった。いま周りを見ていると、それは人からすれば間違えたり混同しやすいものなのだと思う。それは、多分気持ちが良いことと混同されやすい。帰属することでひとは、利害のない自分とほかのものの循環を満たされることを知る。そんなふうに、自分が正常にいとなむことの出来る場所で、自己を忘れさるくらいの強い帰属の感覚を味わうことは、多分気持ちが良い。わたしは家族や知人以外の大きなもの、それから所属グループのような名前のつく何かではない知覚されないなにか根源的なものがあると思う。
体系化されず、文化を投げ捨てていくとはそういうものに似た商業に身をやつす機会を増やすことと似ている。
人間の精神が完ぺきに自立することが出来ないのは何も食べずに生きていけないことと同じことで、大人も皆何かに寄りかかって生きているとわたしは日々思う。多くのひとにとってのその「大きなもの」は不安定なのだ。そして自分の期待するよりもそれはそれほどの帰属をゆるさなかったりして、だから流されて、それも自分が選択し望むようにしたあとで、損をしたと言いたくなる。それは、自分の根本的な感情や欲を企業や他の依存性のあるものに委ねていたからかもしれない。

ルーツを探りたいと思うのは人間のあたりまえの感情で、時代によって改変されていく人間らしさの定義を当たり前のすがたに戻したいというからだの機能で、わたしたちに残された自然の機能なのかもしれない。わたしはいったい何者なのか?本当は何に囲まれて生きるべきなのが人間なのか?それも、普段目の前にある世界が忙しい時はなかなか分かりにくい。ルーティンの力はそれほど強いし、体力も精神も正常に動いていれば、ひとは大抵現状に満足出来てしまう。

もしかすると人間でなくてもそれがあるのかも知れない。わたし達以外の動物や言葉を持たない生き物は普段からそういった母体、というか、エネルギーの主とやりとりを欠かさなかったりするのかもしれない。私たちは言葉を持ち、便利な機能と交流することで見えないものを取捨選択してしまいそこにない事にする能力を身につけた。食品を精製し、ありがたがることでのちほどかえって病にくるしむことのようだと思う。色々な行事や葬式、死者との交流、そうしたことの意味を考えず簡略化してしまい、そうして今ひとの基準は変わりつつある。それは、教育のように誰かの手によって常に定義されていて、それと闘争しようとすれば大きなエネルギーを使う。そうしておなじような人たちだけが増えそこからはみ出ることを異常とみなすようになる。正常が感覚で分からなくなったから皆、人の手で定義されたがっているのだ。
そうしてこれまで求められていた精神世界はごく当たり前にもはやいきいきとしなくなった。自分がすっぽりとどこかにはめ込まれて生きている形を思い描けなくなった。皆常になにかを必要としているのに、いつも何を必要としているのかがわからないから、人はその代償としてジャンクフードを食べるみたいにしてなにかを消費するようになった。そして人までをも消費するようになったように見える。

人びとが話し始めるまでは目に見えない「物語性」

そういった精神世界の存在、何故これを求めるのか、というか、必要とするのか。何故ルーツを探るのか、そもそも尊厳がないと生きていけない人間てなんなのか。と考えてました。(たぶん尊厳は、その精神世界の意義と繋がっているとおもう。自分の確固たる、うまれてからここまでの物語性を否定されることが尊厳の侮辱にあたるのだと思う。物語りのような明文化されにくいものを、あるといい続けて、守り続けるのは難しい。けど精神がそこにあるのと同じように、それはあるし、壊されないで皆が持っているのだと思う)


そのとびらとして、詩とか小説がいまはあるように思えている。自分の場合はたまたまこれにうち当たって、それがゆいいつ誰かに正しく伝わる方法の一つだったと思った。