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本のことを書いてあるブログ

羊達の沈黙/やめさせることはできないについて

〈この不思議な世界、世界の今闇に包まれているこの半分の中で、自分は、涙で生きているものを捜さなければならない〉。

 

 

羊たちの沈黙 (新潮文庫)

羊たちの沈黙 (新潮文庫)

 

 

羊たちの沈黙トマス・ハリス)読み終わりました。こちらは映画が有名で、わたしもかなり前に2回ほど観たことがあります。

 

 

内容

 

物語はスターリング・クラリスというFBI訓練生が、ハニバル・レクター博士という過去九人を殺した過去を持ち収監されている元精神科医から牢屋ごしに会話しながら情報を引き出し合い、こころの内部も含めて交流していくような不可思議なさまを軸としながら「バッファロウ・ビル」と呼ばれる連続婦女殺人事件の犯人を見つけ出し、その居場所や犯行理由などを突き止めていく…という話。

 

あまりにも有名なこの小説ですが、映画でも印象深いのはスターリングと、レクター博士の牢屋ごしの会話だと思います。この部分はスリリングで、チルトンやバーニィなどの働きやその人格だったり、スターリングの揺れなどの絡みがありつつ、レクター博士の知性と怪しい魅力が集約されている場面だと思います。

後半、レクター博士は長年レクターを監視していたバーニィの手から離れたことをきっかけに脱獄を試みますが、この辺の描写はさすが精神異常を秘めたレクター博士という感じで生々しく、アクション映画さながらにドキドキする展開です。レクター博士の凶暴な過去や、牢屋の異常とも言えるほど厳しい監視の描写…(それもレクターの前科によるもの)という前フリが前半ある中で読み進めてきた読者側からすると、ここはまあ、あって然りの場面だったと思いますが、けど「ここまでやる…!」と笑ってしまいそうになる感じはあります。さすがサイコパスです。

 

それから映画を見ている時には気づかなかったのですが、スターリングはFBIのまだ訓練生だったんですね。なので、物語中ではスターリングが初めて殺人事件の生々しい被害者・死体というものに触れたときの驚き、怒り、悲しみ…それによって想起される犯人を捕まえたいという思い、それからそれを持続するための葛藤だったり、そのモチベーションを保っていくための訓練生のこころの動きかた…それから学校の授業と事件の兼ね合いなんかもクローフォドなどの優秀な上司などいろんな人との関わりを通して書かれてて、けどもしかしてこの辺は映画では省略されていたのかも??そんな感じもあり、スターリングは現在成長中のこちらに近い存在として投げかけてくる感じがあり、その成長や成果なんかも感じ取り読んで行くことがます。

 

 

蛾の幼虫

 

この記事の冒頭にあるのは、スターリングがバッファロウ・ビルを追う中で被害者の喉に入れられていた蛾の幼虫を調べていくうえで、「蛾は多種多様に及び、害虫とは限らない その中には、涙だけを吸い取り生きている種類の蛾もいる」と聞かされたときの、スターリングの独白。

こんなふうに、レクター博士、それからバッファロウ・ビルにおいても犯罪者ではありますが、人間の精神世界が描かれる部分が独特な深みを持っているというのがこの小説で、わたしはこの台詞が一番印象深く残っています。サスペンスとしてエンタテイメントとしてプロットが優れていたり、登場人物の描写が深くそれぞれに魅力的なのはもちろんなのですが、心理的精神的な部分がかなり豊かに、またはグロテスクに描かれている部分に満足して読み終えました。

ひとの精神内部だったり、生き物の生態という生物としての嗜好は、本来もしかすると慎ましやかなものなのではないかと思わされる。バッファロウ・ビルの異常性は残虐性に溢れて描かれており、生々しく気持ちが悪いのですが、けれどそう至るまでの過去やそれをバッファロウ・ビルが飼育していた蛾というもうひとつの生態を通して描かれているのも、珍しくユニークでした。そういった表現の豊かさがさらにレクター博士という精神科医のひとりの人間を通し謎解き、というかスターリングを通してどこか詩的に暴かれていくさまは、本来理解しがたい「嗜好」の描き方として唸らされるようなものがあります。

わたしはこの辺をすごく豊かで精神活動の美しさもあると感じてしまいました。

それからレクター博士が、スターリングに情報を提供する上でスターリングの「過去」の話、それもささやかな苦しみの伴う幼い頃の話を聞く場面や、マーティン議員の育児の過去を聞き出し、静かにそれを飲み込むさまが描かれていますが、バッファロウ・ビルに限らずレクター博士自身の秘める異常性というのも、私たちからすると理解し得ないささいな個人のよろこびがもとになっているようです。

(わたしはこの「スターリングに羊の話」の部分、以前映画を中学生くらいの時に見たんだと思いますが、当時はなんでレクターがそんなことを聞きたかったのかぜんぜん理解できなかったという記憶がある…「もっと暗く怖い過去じゃなくていいの?」みたいな)

 

てっきり、これは映画が先でそれをノベライズしたもの…?と購入前は思ったりもしたのですが、これは小説が先のものなんですね。

 

それから、ジャック・クローフォドという人物も物語の重要な箇所にいて、レクター博士と対峙した過去を持ち、スターリングを指導し、常に自分を厳しく律し部下から尊敬される人物でありながらも、家庭に重病人の妻を抱えていたりなどします。この辺は次作に続いていく部分なのかも知れません。

 

 

以下、俗な感想…

 

女性被害者、それからスターリングという女性の主人公を通して、女性の身体、見た目についての優劣の描写はやはり多い。レクター博士からしてもスターリングが若く美しく、また知性に溢れていたからこそ、(この知性の部分はスターリングがかなり優秀ということで何回も多分十数回は描かれている)そこにある恋でもないけれど深い交流がみずみずしいものとして存在してたのだろう…けどこの小説に限らずそれがあまりしつこいと、使える…もしくは使えないに偏りすぎる何か現代的差別に繋がるような気がしてあったりしてムカついて来ることもある。それは事実ってよりも「あなたがそれをわざわざする」という事に対し、人が人からモノみたいに価値判断されている事に対する苛つき、な気がする。

というよりも、よくよく考えるとこれはもしかするとそういったことに対する疑問提起さえも含めた物語だったのかもしれない。被害者の身体、それを見つめる女性であるスターリングの視線、それからスターリングの過去と未来も詳細に描かれていて、しかし犯人であるバッファロウ・ビルはそれら全てを「もの」としか見做していません。そして、最後に言い残した台詞。

読んでいる側からしても、考えるところの多い小説でした。

 

 

差別などを辞めさせることは出来ない

 

それから話は少しそれるけど、そのような差別、区別、それが強化されていって排他行為に繋がるまでの意識、というのはそれが正義だからとか社会の傾向だからとかいう言葉がたとえ使われていたとしても必ずそこにいる「言いたい人がいるから言う」のであって、そしてそういう気持ち良い区別に対しては皆が特に暗い行為だという意識を持っていたり顔を隠してやっているわけでは無い。クローフォドという人間とレクター博士の求めるところが違うように、だから自分の理解しているひとつのことに対してはこれほどまでに注意するのに、ありを踏んづけることに対してはクソほども注意を払わない…そういう「正常」な見方が世の中には溢れているのだと思う。一度にひとつのことにしか人は特化できないのだとわたしは思った。完璧なものなんてない。なので差別をしたい、その気持ちに対しそれを他人が止めること、辞めさせ、平等な世界をつくり、ひとりひとりの当然に割りのいい世の中にすることってもう、絶対に不可能なんだなあと最近感じることがあって、なのでもうこちらとしてはあらかじめ負けで良いですという態度があっても良いのだろうなともはや思った。いわゆるうるさい人、すぐ勝負にしたいという人に対してそちらの用意した勝負(か何かわからないけど、嗜好?)のうえでまあ、そちらは常に勝ち、こちらが負かされるという構図になるわけだけど、それがその人達の嗜好のせいで延々と続くのだとしたらもう、それに対しては有無を言わさず「勝ち」なんか別にあげてしまってもよいではないか…という、そんな感じが最近はしている。

 

といっても実際、現実では些細なことで怒りを感じてしまうわたしがいる。あくまでポーズのうえでは…という意味であります。