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本のことを書いてあるブログ

基本、だれも聞いてない

また行こう鍵煌くや水温む/ささき わたる







仕事の調子悪いとき、時間がないとき、よく、煮詰まりつつもまったく知らない普通の人の、普通の生活、普通の話が聞きたいなあと考えたりしていました。何かそういうときは、今いる場所が当たり前になってしまっているんだと思う。そればかり考えているときふと雑誌や新聞を読んで見ると「問題とその解決法」「もっと、イケてる感じになる方法!」みたいなことばかり書いてあって「あ〜」みたいな感じになる。
そういうんじゃなく…方法論、それから、ためになる話みたいのじゃなく、普通の日記と普通の人の話す生活による言葉がわたしは何故かもっと読みたかった。こういう人がどこか知らない場所にいて、いろいろ考えて生活してるんだな。他の街に、その人の考えてること、よくわかるって思えるような人いるんだな。みたいな。風邪ひいたあと、そうでなくてもものいろいろ食べてまた普通に戻っていくみたく、言葉では説明できかねる成り立ちの中に自分も、相手も、周りも居て、そのことを知るためには全く知らない、けど同じような人がいると言う事実の方が利き目がある。それは生活の言葉のようなものだと思う。
けど、生活の言葉っていうけど一体なんだろうか。そういうのは誰かに必ずしも当てはまるとかではない為必要がないことのように思える。たとえばクラスの人、グループ別れてしまえば皆のことよく分からないみたいな感じにはなるけど、でも小学生くらいの時はたびたびあった、同じ遊びをすればわかり始めるだろう数日間のようなあの感じというのは、意外と地味くさいところが始まりだったと思う。それを、共感とも言うのだろうか…?
ああしてこうしてこうなった、その部分は、人に話す前の部分に含まれていたりして、多分その部分がいまや分からなくなっているのかもしれない。

もっと普通に…っていうけど、いまじゃその「普通」が難しいような。普通は、周りの人が普通で自分もいろんなものに対する抵抗力があってはじめて保たれているんだと思った。




俳句だけでは何かと思い文を書いてみたのだが…自分こそ普通の日記でも書けばいいように思えてきた。