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本のことを書いてあるブログ

AIのことを、今持ってる知識だけで考える

消費税が上がったのにともなって、PayPayを使ってみようと思いいろいろ手続きしてみた。いま一部分で滞っていてその連絡が来るのを待っている状態である。

 

電子マネー化ありきの流れ

 

で、最近iPhoneをアップデートがあったんだけど、そのときApple Payの登録が必須になっていたのでこれには驚いてしまった。もう電子マネー化というのは当たり前のことになってしまったんですね。わたしたちが中高のころといったらポケベルが出てきたりその後PHSだとかで最後やっと携帯が出てきたみたいな進化の過程を間近にを見てきたけど、ああいう「ブツ」があるものと違って、見えない部分の進化というのには体感がぜんぜん追いついてかないなあという感じです。

けどスーパーとか行くともうレジも機械が全てやってくれ、しかもセルフ(支払いの部分だけ)とかも外へ出れば半々くらいで入ってきてるので、あながち今日テレビでやっていた「二十年後、今ある職業の四十パーセント(??すみません。重要な部分を忘れてしまった)はAIが代わってする」というのも嘘ではないのかもしれない。そうでなくてもテレビが勝手にデジタル化したり、マイナンバーカードやら電子マネーやらいろいろなものがなんの前置きもなく移り変わることにわたしのような旧式の人間は少なからず怒りに近い感情を感じてしまうのですが、これは客観的に見て原始人的な怒りなのだとも言える。

「勝手に変わりやがって!」

「でも、こっちの方が便利だよ?ほら。ほら、こうです」

「あ…あ、ああ…まあね」的な。

 

で!思ったんですがAIに変わってしまうことってどこが具体的に良くないのだろう?良いのだろう?みたいなことを一瞬、考えたりした。

そしてそれを考えさせられる領域はもしかすると文芸、小説の分野の人達なのかもしれないと思った。

こころや感情、生活様式、いろいろな人がいるなかシステムがばりばりと変わってしまうことに対しては一律な数値化みたいなのはできないのだろう…

 

 

AI=こころがない

 

まず、あるのが「AIには心がない」というのだけれど、まず「心」の定義というのがなかなかこれは人間からしてもよく分からなかったりする。

わたしが最近気になっていることで、感情の集合体の存在というのがあるとする。たとえばそれは、複雑化した◯◯みたいなものの存在で、わたしたちはいつもそれを感じ、それから見て、触れて、話してもいると思う。けど具体的に何かというと説明しずらく、何かローソン見ると買いに行こうと思う気持ちだったり、白い紙を見るとうんざりするもしくはわくわくするみたいな感覚である。これを人にも、仕事にも、場所にも常に感じている。けどこれに対して何か定義があるかと言われれば特にそういう本は見たことがない。この複雑化した部分がわたしたちが何かを見たときに直接的に欲求に通じる部分に訴えかけてくるものなのだろうと思い、そこに性格、知識、体感、体力、歴史なども総合値であったりするのだろうけれど、これをこころと見做せばAIにそれができないか、というのは何かもしかすると出来るのかも知れないなあという気もする。あとはホルモンというのもあると思う。ひと昔前の部分てきな文芸というのは「筋肉型」「母性型」「幸福型」「ノンホルモン型」…これは適当に分けたけれど、わたしはホルモンの形態で分けることが出来るような気がしている…。ホルモン…これはこころというよりもそれに対して感じやすい人間が歩いてきた足あとな気もしていて、わたしはそれに対して全く意識的ではない部分をたまにしらけた感じでどうしても読んでしまいがちである。

 

まず番組を見ていて思ったのが、「AIにはできない」という人たちは「機械ごときにやれるはずがない」という感情の部分で言っているのが多い。いや、その部分はもしかするとそういうコメントを多く集めたかったのかもしれないけれど、けどわたしもまずその反応が出て来るし、他人のものでさえ疑わしいのに、AIの作ったものを摂取したいと今の時点ではあまり思わない。が、「AIにできるわけない」と言いつつもまずそもそも何故そこに人間が優っていなければならないのだろう?という疑問もうまれてくる。「こころ」はそれほど大切な部分で、何故文化や精神世界の担い手を機械がやってしまってはいけないのだろうか。なぜなのかというと自分がやってきたことへのプライド以外での意見など特になかったのだとわたし自身に対しては思ってしまった。だとしたらこれほどまでにいい加減な感情はなく、それはある意味で思考停止なのではないだろうか?!とわたしは考え直してみることにしたのである。

例えば病院嫌いの人というのはそのほとんどの原因が医師や看護師の態度からというのがあるのだとしたら、もし精度が高まればAIを積極的に利用したいという人も割に多くなるのかもしれない。そう考えるそもそも社会というものの人間関係や私利私欲、派閥、縁故で動いている場合も多く、よくわからない慣習だったり無駄そこに入ってみればかなりの部分で多い。フィフティーで公正平等なんてもの、100パーセントでは多分無い。

 

で、わたしはいまアプリに毎日格言を持って来てくれるやつを使っているんだけど、毎日使っているうちにちょっとした人格がありそうに思えてくるのである。そんなふうに、いいことだけしてくれるこのような存在というのは心地よく、逆にいえば二丁目で常にゴミ捨て場を漁っているしらない爺さんが居たとしたら気味が悪いと感じるのだろう。うるさいやつ、空気読まないやつ、常に食欲が勝るやつ、そういった、人間側のエラーや謎とくらべて機械のエラーと謎みたいのはどれほどのものか…とも思うし、というかこれを考えてるうち人間というのは本来エラーだらけで動いている機械のようなものなのだとも感じるようになってきた。

そもそもで何かに対する結論というのは人間の総合値、見てきたもので出てしまう。千差万別で、たとえば場に必要とされる一つの答え、というのがあったとしたらだいたいそのくらいの傾向というだけになるだろうし、そこに「絶対ある」とか「絶対ない」とか言い出す人が必ず出てきて、「まあまあ」という人が出てきて、仕組みの方が期日までに決めろといわさり、責任はそれを言わなければならない仕組み側の人のものとなる。そこに完璧に平等な私利私欲のないAIというのがあるのだとすれば、役に立つのかも知れないとは思う。

 

 

…しかし「信用する」みたいな感情、って一体なんでしょうね。この間チラッと見たホリエモンの本に、「資産とは、いま、自分がお金を集めようと意識したときにその人の信用を元手に集められるお金のこと」みたいなことが書いてあったのだけと、そう考えると普段仲良くはしていたとしても特に金は貸したくない人間というのは顕著にいるし、初対面だとしても五倍くらいにして返してくれそうだなみたいな感じの雰囲気を醸し出してくる人もいる。そもそもで本当に、基本の礼儀って大事ですね。

「金貸して」と言われてそのとき初めてはっきりと意識される、「信用」…AIがもしその信用さえも獲得したとすれば、手塚治虫のロビみたいなロボットとして使われていくのかもしれない。

 

 

教育とか

 

とは思うけれど教育とか子ども関連は機械をもっと手放して面倒くさい汚れの多いことを積極的にした方が良いのだろうなという感じがします。例えば以前読んだ寄生虫博士と言われている方の本でも、日本の今のアレルギーはなんでも消毒殺菌しノン◯◯な空間を不自然につくりだした清潔嗜好から来ているのだと書いてあったためわたしの姉は一生懸命子どもが1歳になる前から子どもを砂場に連れてゆきあそばせてたりしました。そのせいかは分からないけど今は元気です。子どもとか命の部分ってだから便利にしたり簡素にしたりは出来ないものなんですよね。そういうのを知らないで育った、営利主体の企業に文明の進化を任せきりにしたら絶対駄目だよなあと思います。私たちも結局、便利な社会や人間の森みたいな都会にずっといればそこから離れて自然に埋もれたくなる時期が必ずサイクル的に回ってくる。人間は「ゆらぐ」ものなのです…それは常に…わたしはそう思います。

だから文芸の人たち、頑張って下さい。