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本のことを書いてあるブログ

気分は形而上/何をやっても自分なり

気分は形而上/須賀原洋行

 

読みました。須賀原洋行の本は「よしえサン」シリーズを色々と読み漁っていますが、こちらは須賀原先生のデビュー作それから代表作なようです。読んだのははじめて。

 

形而上学とは…科学的研究や経験的観察によってとらえることのできない超自然的なことがらについて、純粋に概念的な思考を用いて、または直感的に探求しようとする哲学。

 

なかなかエグみのある部分も書かれている為(青年誌だから?)よしえさんシリーズのお父さん的な視点に慣れてから読むとちょっと意外だったりするかも?タイトルだけで見ると何か難しそうな感じはありますがこれはギャグ漫画です。が、須賀原先生の知識が読者を上回り過ぎているため時々「どういうこと?」的な込み入った高尚ギャグがあったりも…自分はゴキちゃんが出てくるとホッとしていました。意外と、よしえサン漫画などから察するに作者の須賀原先生自身はこの中のキャラクターのどれでもなく、まわりからはゴキちゃん的に捉えられているのかもな…という目で読んでいました。

人の視点がカメラになってたりアイデンティティが人から要求されたものだったりする部分にはかなり共感しました。こういう考えって、「真面目に考え過ぎ、鬱体質」の人に多い部分なんだなあ〜っていうところも、漫画になってしまうと笑えるから不思議ですね。

 

 

 

ビデオを通して見た自分

最近自意識に関する漫画だったり、漫画や小説を書く人のエッセイを読んだりしていてふと感じていたことで、こういう自分に対するイメージと、外から見た像ってどれくらいの違いがあったりするんだろうと思っていた。そんな時に、自分は自分の声が入っているビデオをたまたま見ていたんだけど、そこでも現実の自分とイメージの自分との違いが存在していたということがあった。ビデオを見ているわたし」それから「現実にいるわたし」の違いは、その場面の登場人物となっているかどうかで、だからビデオを見ている単なる鑑賞してる立場から見ると必要ないことばっかり何故かしているんである。で、不思議だったのはそういうことしている自分をさっさと忘れていだという事でしかし現実というのはビデオという正確さしか持ち得ない道具を通していろんな狂ったバイアスを失ってしまうと「自分はこういうことしないな」みたいなやつを軽く上回って存在していたのであった。

わたしが思ったのは、「ビデオ、鏡は人をまるっきりで映す」ということであった…ないですか?ビデオとかを見て単純に絵面として「自分はこんな姿をしていない!」と思う瞬間。けど、ビデオは嘘をつきようがない…!わたしはこの事実に最近二、三時間くらい受け止めきれない何かを感じたのである。

何か自分はそこから、自分はこういうことしない人間だよなとか、こういうことする人間だよなとかいうイメージというのは、あくまで大分盲目に、平均値の状態の視点から考えていることなのだなと思った。そう考えると大分嘘つきまくって存在しているような気がしてきた。

 

自己紹介について思う事

 

で、同じようなことに自己紹介というのがある。自己紹介というのはなかなかする相手とか性格によっても難しいけれど、ここ最近「ぜーんぶ、嘘じゃねえか」みたいな経験をよくしてきたもので、だから自己紹介というものを容易には信じなくなってきた。

まず、自己紹介というものを把握していたいのだけど、これは初対面の相手に自己を軽めの単語で説明して、相手との距離を図りやすくする、もしくは場を和ませる為のものだと思う。けれどあまりにこじれまくった人間、またコミュ力が乏しい人間の場合これをまず把握できかねたりその課題を尊大と受け取ったりして、自己紹介の場面からしてこじらせるみたいなことが結構ある。

わたしはこのことから、「自分こうやって見えていて欲しい像」「その人の社会から求められていると思い込んでいる像」「他人から見たときの像」は微妙に違っているんだなと思ったのである。

 

話が通じにくいのは、自己紹介を「その人の社会から求められている像」と思い込んでいる場合である。会社から求められているひとつの理想、こういったものは会社でも、家庭においてもあるだろう。会社では従順で真面目、自己主張も忘れない人間。それから、家庭では家族のために自分を律することができる人間…とか。で、分かりにくく、男とはこうあるべき、女とはこうあるべき、人とは、正義とは、こういう見えないものが見えない言葉で結構ズルズルと出てくることは日常のなかでもたびたびある。こういった場合、なかなか会話が噛み合わなかったり、もしくはすっげえ嫌な奴だなという思い込みが拭い去れない事が割りとある。何故か、っていうとその人はこちらから見えない別の社会の理想を話したいからなのであった。で、そのまんまでお互いにいると話が噛み合わないので、もし話を進ませたいのならばまずその人の思い込みをほぐすこと、それからそもそも置かされている社会が違うということを分からせるための二重の苦労を要する。

 

しかしこちらはその人がそういう人なのだと自己紹介や初見の振る舞いでもう思い込んでいるわけだから、そうでない時のその人にとっては不必要な部分というものが毎回解釈しづらいのである。なかなかこの「自己イメージ」というのは強固である。しかし驚くべきことに、その人たちはそういうことを記憶していない(だからやむおえずにやってしまったという解釈さえも存在しない)ものだから、どうにもならないのである。

言ってることの辻褄が合っていないし、どう心を砕いても話が通じない…そう感じている場合、その社会での理想を追い続けるマグロみたいになっている人達の体にぴしぴし自分はぶつかっているだけなんだなあと感じた。

 

で、残りの「他人から見た像」それから「こうやって見えてほしい像」これは普通にあると思う。こういった解釈と事実のせめぎ合いというのは誰にでもあり、これが収束している部分が人格なんだろうなあと最近は思ったりするけど、でもなかなかこの辺も噛み砕いて考えられるようになるまでに時間を要するんだなあと、人を見ていて感じたりはする。自分の中で、この人は何か怒っていても怖くないと思ったり、ちょっとでも怒ると物凄く煩わしいと感じたりする場合、言葉ではなくて人格から発せられる何かを感じているんだろうなと感じるんである。だから、自分の言いたいことは、いくら自分を演出したり、嘘をついて理想を追ったって結局その人はその人の持つ人格以上のものを発することなんて出来ないし、もしくはいくら汚く汚れていて馬鹿にされていても、人格というものから発せられるものを誰か受け取っていて人間てそういう自分では変えられないものを持っているんだろうなと思った。

 

で、経験から思うに、常に自分に嘘をついている人っていうのはどんなお面を被っていても面倒くさいと感じている。逆に言えば自分に嘘をついてないひとの怒りは自然現象のように当たり前じゃないかと感じているような気がする。そういう面倒くさい人が、無意識に寄っかかって来られて、そして全ての迷惑を記憶から消し去っている。こっちは全部覚えてんのに。なるべくなら関わりたくはない…「自己紹介、自分でするものぜんぶウソ」くらいの目で見ていたほうが良いのかもなあと最近は思う。人は嘘を付く生き物なのだ…。

 

補足…他人がマイノリティ、弱者に対して言う事

 

あと思ったのは「生きづらさ」それから「愛されたいのなら愛してほしいと言いなさい」みたいな文言に毎回納得できない何かを感じるのである。こういうことを言うと、けど自分はそういう何も持っていない状態から何かを得た時、すごく嬉しいと感じたからいま、憎まれ口を叩いている君もきっとそう感じるのだろう…なら素直にほしいといえ、みたいなことを大分上の立場から言われる構造みたいのを目にする。自分が思うのはそもそも、別の人格だろうということである。

須賀原先生の漫画を読んでいて思い出したけれど自分の場合は、二十代前半くらいまでは視線恐怖、それから意欲感情がかなり少ない、そもそもそれが「湧いて来ない」という感覚はあったと思う。もともと、神経過敏なところはあったけれど、これは環境に関する部分が多いような気がする。ゆったりした場所では心も広々とするし、狭くて常にうるさい場所では神経が尖りやすい。神経が尖りやすい経験を毎日していると、神経が落ち着くという感覚が分からなくなる。

だから自分はサプリメントを飲んだりとか散歩を長時間するみたいな意味不明な事をしてそういう活動ホルモンがどうやったら自然と出てくるんだろうか〜と何かそれをずっと待っていたりした。けど結局それは湧いて来なかった。それが湧いてくるようになったのは30代の半ばくらいからで、しかもきっかけがよく分からない。「安定」みたいなものあるのかもしれない。

ていうわけで、だからそもそもそういう人間は、自分がこうあるべき、こうなりたいという像も、意欲もないのである。だから一度目でダメだったことを殊更に頑張り続けて、出来ないというような劣等感を得るようなこともない。社会に住みにくいというよりも、ずっとあるのは自分はどうしてこういう性質に生まれたんだろう?ということだった。それを「生きづらさ」というのは、違うと思う。自分は何故こういう社会に、こういう人間が生まれたんだろうと思った。さらに自分は女なのに、その女の当たり前が分かっていても身に付かない。生きづらさというのは、生きるべく作られた人間が、生きづらい場所で足掻くステージだ。自分の場合は、生きづらい以前に、ずっと消えかかっているよう感じで、そこから一人で特にやりたいことも無い中で存在してしまっている意味を探すような感覚だった。そんなふうに生きている中で、普通の立場にいる人から、普通の言葉でいうと「欲しいと必ず感じるもの」「あるべきと願うようなこと」そうなるんだなあというのが自分はまず、ショックでもあったし、自分の人格すらそう位置付けられるんだなと思った。

これって、ひとつの消費かもしれないと思うんである。色んな精神学的な言葉が生まれてそれに対する治療薬、治療方法が生まれる代わりに多様性はなくなり、言葉で区切られるようになった人が結局は互いにがんじがらめになっていくような今の社会でその下にあるのは、先に社会を築いた人たちが、自分達に分かりやすい形に社会を区画、整備して、自分がもっとそこから分かりやすさと平和、希望を搾取したい欲求から来るのだろうなと思った。

自分の思うのは、だからそういった疑問を持つ以前の人間もいるのだという事である。生きづらい、と発せられるのは、生きようと思える希望を手にしたあとに生きるべきという欲を携えているような人間じゃないだろうか?少なくとも最中にいる人や直ぐに死んでしまう人からすれば、何もかもが全然見えないし、自分の考えていることもよく分からない。低燃費で、人に迷惑かけないで生きてたい人だっている。何故そこから「生きづらい」と唱えるような歌が生まれてくるのかがよくわからなかったのである。精神医学はまだわかるが、そんな部分にファッション、他人のエゴまで入り込んでくることに驚く。社会は多様性を失って、ひとりのマッチョな人がこうあるべきと唱える理想ばかりを追求する姿に変わりつつあるのだと感じたし、そこに自分は多分乗っかれないのだろうなというお馴染みの意識がまた存在していた。