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本のことを書いてあるブログ

脳には妙なクセがある/池谷裕二 を読みました

こんにちは。
脳には妙なクセがある/池谷裕二


を読み終わりました。池谷さんは有名な脳研究者の方で、「脳の可塑性の探求」をテーマとしこれまで未解明だった脳科学の研究を第一線で進められている方です。著書もたくさん出ていますね。


こちらの本は池谷さんが講演などで話した内容をほかの方がまとめたものや、ご本人の書かれたエッセイなどを出版に際して自身で再構成・編集したかたちのものなんだそうです。なので難しい専門的な話よりは読みやすく、知らなかったことが書かれている感じでとても興味深い本でした。

社会の中での脳の働き

脳の働きとして人間でもっとも特徴的なのは社会的な生き物だというところなんでしょうか。なのでたとえばロボットや取引のようにプラスマイナス、利益のみを追求するような判断をしていけば理屈では自分にとって益な結果のみを生み出しつづけられるはずなのですが、実際には個人的感情で反応し、個人的な関係に起こる感情にしたがって行動してしまったりもします。たとえばこれが動物だったりすると自分の命だったり食べ物を優先させるような単純な働きになるのかもしれませんが人間の場合それからさらに社会的に良いとされるもの、善悪、共感という個人の枠外にある一般的常識みたいなものも大きく影響しています。
たくさんある章を通して印象的だったのが「自分はこういう人間だ」というくくりはかなり思い込みに近い部分だということ。たとえば「自分はこれを知っている」「自分はできる/できない」みたいなこともかなり思い込みによって変質させられているみたいです。過去の記憶も時間が経つにつれて、事実とはかけ離れてより、自分の解釈よりのほうへ塗り替えられているもの・・・これは他人と接するとよく思う部分でもありますね。

自分という他人のようなもの

自分は自分という人間をもっとも知りえない。(脳と身体)をコントロールできて、理解している領域だと思い込んでいるけれど実は、コントロール外にあるのが自分だということがわかってきます。何かこの感覚はいちど身体を壊したりすると分かりやすい感覚かなあと思います。「治る、治らない」も自分の意思とはまったくかかわりなく行われていくのを見ると、自分ていうのはあくまで今ジブンが乗っかっている乗り物みたいなものなんだなあとなんとなく思えてきます。で、話はもどって自分というものはコントロールできない、なぜなら・・・そのまとめ的な22章で、人間に意志というものはないという衝撃的な事実が出てきます。
つまり、人間は自分がこうしようと脳の中で判断を行うからこそその行動をしていると普段わたしたちは思っているのですが、器具を使って脳の反応を見ていると、人間が○○したいという感情を発生させる依然に脳はその行動につながるための運動をはじめ、行動のための条件を既に整えているのだそうです。つまり感情として○○しようと思う前に既に行動の方は「反射として」発現しているのです。その後に、感情というものが生まれている。
さらにさらに、この実験結果「人間の行動は自由意志で決定しているのはなくあらゆるものの総合値として出て来る反射を行動と読んでいて、感情はその後付けなのである」ということを知ると、その被験者たちの判断の結果が変わってくるんだそうです!どういうことかというと、人間は常に「こうあるべきである」+「社会の中でこうあらねばならない」=その中で自分はいつもこう行動してきたよな、という個人としての決定、判断を自分の意思が下して○○したいと感じているのだと思っていて、そこには自己責任というものが存在するかのように見えているのですが、それをあえて関係がないと教えることでよりもっと勝手な判断を選ぶことができるようになってしまったのだそうです。

自分ってナニ…

これを知ってしまうと「自分」というものの規定が変わってきてしまいそうですね。何かこの「こうやってきたよな」の部分でさえも実は思い込みであったりもするのだとしたらその、社会と思い込みの中である自分のイメージと、別個の単純な生き物としての自分は、まったく別の線上に存在しているのかなと思えてきます。わたしたちが共有して持っているもの、沢山あるメディアや伝承、それから日本はこういうかたちでこういう文化で、と日々流布されている大きなもの、それから他者、日常が、その強烈なものと脳の思考とを切り離させないようにしてくれているのですが、もしそれらを他人を含めてまったく摂取しなくなれば、その二つの線の後者の方がもっとより大きくなって来たりもするんでしょうか。この「あたりまえにあり、摂取させられている世界」について、改めて意識したりもしていました。
じゃあ一体自分とは…という話になって来るんですが、今とりあえず言っている自分らしさとは、外に出て来るものだとは思いますが、それは社会の中での求められる行動様式の経験値、理想によって起きた反応というのが大きいのかもしれません。これを読んでいると人間は完璧に社会的な生き物だなあと感じました。


嫌悪というのは何故強い感情なのか

ほか、それぞれの章ごとに出て来るもので興味深かったのはいろいろな感情と社会との働きとのつながりです。
脳研究ではいろいろなシチュエーションでの実験を重ねて人間の感情、反応などを引き出して来ます。

こうした事実からアンダーソン博士らは「道徳心は進化的に古くから存在している心理的反応を原型として派生した」と説明します。要するに、古い生物は、苦み(毒)や悪臭(腐敗)などの生命にとって都合が悪いものを拒絶するシステムを既に発見していて、のちに脳はこの効果的なシステムを転用することで、モラルという高度な社会的感情を創作したというわけです

ここで書かれていたのは嫌悪と恐怖の感情のメカニズムの違いだったのですが人間がもっとも避けたがる嫌悪という感情は反社会的な働きに対して抱くもっとも強い拒絶感情なのかもしれません。確かに怒りや悲しみは消化することが出来るものかもしれませんが一度これを感じてしまうとどうにもこうにもあらがえない、それから身体を壊すにまで至るような気がします。それほど「死」に直接するイメージ(社会的道徳に反するもの、死者そのもの等)対して人は拒絶感を抱くものなのかもしれないと思うと納得がいきます。





まあすべてにおいて自分的まとめのようで申し訳ないので興味のある方は本を読んでみていただきたいです。


変えさせるモノがある

それから、最後に気になった部分まとめです。集中と脳波についての部分で、瞑想を続けることで人間は脳波をコントロールすることが出来るようになるそうなのですが、より修行を積んだ僧の脳波を見ているとそれは「集中」とは関連性がなくなってくるのだそうです。つまり良い結果を出すために一般的に集中力などが必要だと思われていますが一概にはそうは言えないのかもしれない。ここで動物たちは実際は集中力ではなく散漫力に長けているべきだと書いてあったのが面白かったです。例えば草食動物が生き残るうえで草を食べているのみに集中していたのではすぐに命が危うくなってしまいます。自分がここで思ったのは生物的に散漫というか大きい方が有利なのか、それとも小さい方が生き残れるのかということだったりしました。これはいま読み直してみても完璧自分の考えの延長なんですが例えば行動という点だけ見てみると大きいはそのまま場を占領することが出来ますが、たとえば人間が使っている道具というので他のものと違ってくるのは自分だけでなく他人を動かすための○○みたいなものは、もっと小さく、集中を要した方がよいのじゃないかなあと思ったんですよね。例えば議論に使う言葉もそうで、だらだらだらだら要領を得ない自分の話をしているよりも、相手の話をよく聞いて「こうじゃないですか」と言ってあげたほうが結局次に持って行きやすいですよね。なんというか「制する」でなく「変えていく」ていうところに目を向けたとき散漫でなく集中&もっとシンプルにならざるを得ないみたいな性質があるんじゃないかなー、と思いました。何かこの行動するうえで人はシンプルにならざるを得ない→道具とか手みたく動く部分は小さいものだらけ、ということも気に成ったりして、たとえばこんなこと言ったらあれですけど例えば生殖とかもそうですよね。あれは今この場を制するんではないけれどより小さいことに特化することで相手は変わらざるを得ないわけなので、そんなふうにして自分なりの方法で未来を予測しつつ特化したりしているものなのかなあと思いました。他人をツールを使いつつ変えていく能力というのは人間ならではのものなのかもしれませんね。生物界では実際寄生だったり共生だったりはもっと大きく場を占めていて、わたしたちが普段知覚していないだけだとは思いますが、それぞれの判断の結果のかたちが今目に見えるものなのかなあと思うと面白いと感じます。
池谷さんは、コミュニケーションというものは一般的に受け手主導であると書かれていて、それは発したことが何であっても受け取り手の判断にゆだねられることによるのだそうですが、言葉というものひとつを見たうえでもやっぱりそれは他人が受け取ることを前提としているので(単に吐露としても使われがちですが、そういうものはなんていうんだろうか??)シンプルな方が結局わかりいいっていうことになってくるのかなと思ったりしています。そう考えると人間が古くから短歌や俳句に特別に固執してきたことだったり、モノを残そうとしてきたこともちょっと性質は違いますがそういう流れのひとつとしてあるのかもしれない。成るとか自分外意志的な感じで。

まとめ

本当こう見てみると人間の「あたりまえ」外から見た姿ってユニークで、可能性だらけな感じがしてしまいますね。もっともっと特化していけば、今以上の力を割と簡単に出せるものなのかもしれない。それよりも知るべきは目前にいつもある、大いなる当たり前、常識、こうあらねばならないだったりするのかも。
あとは行動の大事さも知った感じです。

感情は社会的な生き物として発生すもの、ともいえるのかもしれませんがそれをさらに他者とのかかわりの中でコントロールしようとしてしまう人間の能力、それからそれよりももっと大きな社会のなかでの、いち動物としての「わたし」についていろいろと考えてみたくなりました。