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本のことを書いてあるブログ

其の、単純な世界(ツナ缶のこと)

お盆に、実家へ帰った。その時の夕飯が手巻き寿司だったのだけど、ツナ缶にマヨネーズを和えるのを手伝うことになった。その時、母が唐突に、「シーチキンのオイルには栄養があると思う。これまでそれを捨てていたが、別に切る必要はない。そのまま和えるように」と言い始めた。たしかに、オイルを捨てるのは毎回、勿体無いと思う。だからわたしはスープ煮のツナを炊き込みご飯で使うときとかはスープ込みで使っているし、さんまの蒲焼缶などはそのまま使ってはいる。けど手巻き寿司だったら巻く時にオイルだくのツナを使ったら、海苔に染み出てきて多分捨てればよかったってなると思う。でもその事を話す気はなかった。不思議なんだけど、わたしの周りには物凄く強固な意志を持った人が集まりやすい。これって、もしかすると相対的な問題で、わたしが意志薄弱だから相手が強固な筋肉を持つようになるっていう結果論なのかもしれないけど、とにかく一度思い付いたら「こうったらこう」で押し通す人が多く、とにかく話合いとかには絶対ならない。なったとしても「随分、こだわるんだねーー!!!」って言われたりする。…だから自分は、たとえ意見を持っていたとしても「あーそう。やりたいんだったらやれば」という立場におかされることがおおい。

多分母から見たわたしはこれを聞いて「あ、本当にそうだな。シーチキンのオイル、勿体無いからすてるのよそう」となると思ったのかもしれない。それが母の住む単純明快な平和な世界なのである。何か本当に思うんだけど、こういう誰にでも0.1秒くらいで思いつくような気付き(タバコは身体に悪い。車よりも歩く方が健康である 等)を唐突に身に染みて実感した人間が、べつに普通に生きてる人間に対して言わずにはおれず、しかも皆を巻き込んで歩いていく図みたいなのって本当、疲れるよなあって事で、けどその人たちからしたら「それ以前」「それ以後」しか存在していないわけで、だからその後の、ツナのオイル込みで使う世界を伝える伝道師みたいなぺっかぺかの自意識でいるんだろうなと思う。

 

自分の疑問なのが、そもそもオイルにそれほどの栄養があるのかという事である。こういう人たちに不思議なこととして、べつにそれに対して深い興味を抱いているとか、アイデンティティにそぐわっているとかいうことじゃなく、単純に自分の中での静かなブームだったりすることが多く、だからその三ヶ月後くらいに行ってみたらもうツナのオイルに興味さえ抱いてない母がいたりするのである。そういう時、コミュニケーションは複雑になる。「ツナのオイル、入れてもいいの?」「は?べつにあなたのしたいようにすればいいんじゃない?」みたいなやり取り。そこに存在する、(なぜか、わたしが怒られている…?!)みたいな疑問。だったら最初からお前の気分になんか付き合わないでオイル切って使ってば良かったわって思う。そういう、わたし側の静かな怒りが相手に伝わることは未来永劫ない。

 

その事を考えるだけでマジでうんざりする。ツナのオイルにそもそも、興味抱くなと思うし、三十過ぎた娘がツナのオイルの栄養価を気にしないでアッパラパーなまま生きていると思わないで欲しい。