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本のことを書いてあるブログ

中学生の頃だったけど、友達三人と、何故かわからないがある男子生徒にいたずらでラブレターを書いてみようよ、ということになった。その男子生徒はまじめで、リアクションもまじめで、全然動揺しないという事がその時ちょっとしたクラスのブームみたいになっていた。「書いてみよう」しかもあろうかとか、それを言い出したのはわたしだった。単純なメモに、「あなたのことが好きで…」なんのひねりもないような文章を、三人で面白がって書いた。多分、頭の中には「どんなリアクションをするんだろう」というわくわくしかなかったような気がする。その相手が好きとか嫌いとか、とくに何もない。単に、アリの巣に棒を突っ込んだら一体どれだけ反応があるのだろう、という子どもみたいな悪戯心。そうこうしているうちに、その中の一人が「やっぱり、やめよう」と言い出した。「やっぱりやめよう。わたし出したくない」結構、その子ははっきり言う方で、わたしは人の気分に合わせる方だった。いつだったか、クラスであまり人気のない女の子が、わたしたちのグループに毎日、毎日くっついて歩いてくる時、わたしは「いやだなあ」って言った。二人ともそれに頷いた。その子も事あるごとに「ゴリラが今日なにした」みたいな事を言った。それから、その子がダサいことした、肌の手入れが汚い、みたいな事を(皆が言っていたから)わたしも言ったってことを覚えている。その子はその時、なんの返事も返してこなかった。わたしは、あれ?と思って、前、その子も言っていたのになあと思った。けど人の口からとか、友達の口から聞くと言うのはまた違って、そういう陰険な感情は嫌だったのかもしれない。で、結局偽ラブレターは出さず、何もしなかったんだけど、あの時の紆余曲折を、大人になってからも時々思い出すのである。わたしはあの時何も考えていなかった。それから友達が付いてこなかっただけで自分はやらないんだなあとか、そう考えると、学生時代のそういう経験から得た細かな立ち位置は、今も未だ自分の性格にずっと影響を与え続けているのだと思う。わたしはそういうとき、ひよるのである。わたしは彼女と、友達になりたくて友達なったことをいまも覚えていて、彼女は面白いだけではなくてわたしの弱さを見すかすような人だった。運動も勉強も出来た。よくわたしなんかと友達になってくれたよなあと思う。その、人気のない子は可哀想だけど、面白くなくて、他人の顔色を伺っているような子どもで、そういう時自分らとは毛色の違う人間のその負の部分に対して子どもっていうのは容赦なかったように思う。

いじめとか馬鹿みたいな嫌がらせっていうのは、未だにあって、狭い場所でも、広い場所でも特に理由や傾向なんてなく、人が来る確率みたいな運のように発生しているような気がする。分析していけば、ストレス発散や構造の無理があったりもするのかもしれないけど、意外と単純に「なんも考えてない」「リアクションが知りたい」それくらいでも行われるんだなあと大人になってからあの時のことをそのままで思い出したりする。わたしの思い出すのは本当に自分はこれっぽっちも、相手を人間としていたわる気持ちなんてなかったっていうことで、自分の好奇心を満たしたり、その辺の雰囲気を感じ取って正しいことを遂行するという気持ちにはあふれていたように思い、しかもたった一言でそれが揺らぐ程度の思い込みでしかなく、いかにも人間としてちっぽけであった。わたしは今も昔もそれほど変わりなく、自分の本当にやりたいこともなかなか掴めないけど、そういう恐ろしげな経験、もしかすると事実以上の後悔みたいな感情を伴って、未だに思い出すのであった。いたたまれないよなあ。他人の気持ちをこれっぽっちも想像できないなんて、今考えると恐ろしいよなあ。私の場合それは幼さから来ていたと思う。早めの段階で、しかもそれは間抜けな形で失敗に終わってしまった。すこし話は違うかも知れないけど、そういう自身の詰めが甘いが故の結果、というのにはこの年になっても未だに散々遭遇しているような気がする。