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本のことを書いてあるブログ

栄養士の作ったメニュー

昔からよく料理を振る舞う事に関して「おかあさんが料理をするのは愛があるからしてくれるんだ」みたいなことが言われてましたが、自分もごく当たり前に料理を毎日するようになって、そういった取ってつけたような事に反発を抱く期間を経てやっと「たしかに愛がなければ作れない」と感じるようになりました。なんでかっていうと、ただ作る、義務感でそれをできたとしても、やっぱりおいしくしよう、好きなものを入れよう、見栄え良くしよう、ていうのって続かないんですよね。だからちょっとしたものをつくってパッと出すだけでも、やっぱりそこに相手に対する気持ちがこもってしまうんだったら、愛を原動力にやっているんだと思わざるを得ない。そうでなければただなんとなく、存在させられてやっているだけだったら、自分なりのものばっかり出来てしまって、見栄えも良くなければ自分が、ただ部屋でどべっと寛いでいるだけの成れの果てを当然コイツになら出してもいいと思われてたりすることもある。それは愛っていうか単なる惰性を見せられている気分になるし、こういうとき、ただの飴でもおいしいものを、ちょっとラッピングをしてくれたりする人の顔を思い出してしまうけど、すごい気を使ってくれてたんだな…って思ったりしますね。

それで、わたしは調理室とか社食とか、給食室みたいなもの、それからそういう栄養士さんが作ったメニューが好きで、そういうの食べたり、メニューを見たりするのも好きです。自分がそれを見てて、これがネットであるような誰でも作れるおいしいレシピとかデパートであるおしゃれなレストランでは感じないようなことをいつも思い浮かべてしまうのに、そういう場所自体、例えばこの世界の色々にある場所の中で、ただご飯を作って皆のために排出するという機能のためだけに集まったいろいろなもの、ひと、過程のすべてがこっちまで、匂って来るからだと思う。まず、番人みたいな栄養士さんがいて、皆のためにメニューを考えている。人が集まって、皆のためにあくせく動いている。終わっても、まだ片付けをしてくれている。そういう過程があつまっていま、人のために心臓をもって働いているっていうところがわたしは好きなんだと思う。そういう感じは図書室とかにもありますよね。「わたしでなく、皆のために」みたいな顔でひじきとか小松菜とか、揚げただけの玉ねぎみたいな素材があっちこっちにあって、わたしらがもう、お腹空いている時に好き好んで選ばないようなものがじつは「おいしい」っていうことだったんだって思いつつ、それはお腹が毎回空いてる時に差し出されるので食べてしまう。わたしはこう言うもの食べて育ったんだったと思う。それで、わたしのようにこう言うもの食べて育って行くべきと思う人がいて、それが別に何も指図してこないである空間、それからメニューが、ずっとおとなしく並んでいるのを見て、そういう物語みたいなとこに、自分も居たんだなあって思い出したりする。

骨折した時とか、入院していた時もそういうの食べるのがずっと楽しみでした。それは単純に、自分が作らなくていい、作ることから解放されたっていう理由があったのだが…あとはただ、他に何もする事なくて腹減ってたっていうだけっていうのもあるんだけど、病院ってすごいですよね。やっぱり短期間だから耐えられるんだろうけど、シンプルに自分のからだが治るのを待つっていう事で他人や先生の顔を見てるだけで、あとは同じような着衣を来て、体つきと年齢だけ皆違って…外ではこうは行きませんよね。あとは食べてテレビ見て眠るだけが許されている空間…わたしはそれが天国みたいに思ってました。食べることがこれほどまでにシンプルな生活のなかで持ってこられて、普通においしいと思って、それで食べて、元気になると思わされていた病院…今でもたまに思い出す。