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本のことを書いてあるブログ

直木賞」って…

 

今日、書店でたまたま直木賞の作品を何冊か目にした。わたしは知らなかったのだけど、小説界では「直木賞はアガリ」という説があるらしく、今までなんとなく目立っている芥川賞の方に目が行っては「なんでこーゆーのが、賞なの?」と思ったりしていたのがやっと腑に落ちるようになってきた。わたしが目にしたのは、「下町ロケット」「対岸の彼女」「プラナリア」「利休にたずねよ」…等。で、最近本を読むようになってやっとわかったのが芥川賞は現代の若者の風俗を性とか流行込みで書いた新人賞的、もしくは小説界の宣伝の側面の大きなもので、直木賞というのはもうちょっとベテランの「これぞ」的な賞なのだと思った。読書はじめの人は、こういうのを読むと良いのかも知れない。どれも一度読むと何か全体的な思想がひとつの日本の傾向だったり、性だったり、概念としてわりとこころに深く残されるようなものが多い。他にも山本周五郎賞だったり三島賞だったり色々とあり、正直よく分からない。小説の特殊な所は色々とあるが、とにかく賞、多いなと思う。

最近これを読みまくっていたので疲れてきて今はあまり関係ない本を読んでいる。小説が、こってりとしたステーキだとしたら、それ以外のエッセイや旅行、料理についての本はそれを取り囲むようなものだったりスープだったりするのかもしれない。

 

 

性とか、人前で言わないこと

 

わたしも何かを書いたりはしているけど、性のことについてはもはや「書かない」が不自然なことのように思えている。しかし、そもそも、小説という立ち位置は「それぞれの個別の生」を自由気ままに書き表すものだと思うので、あらかじめからして「万人受け」するものではないのではないか、とわたしは思い始めた。つまり、色々な人がいる。そういう人が、世間では仲間を見つけられなかったり秘密を人に言えないまま生きている。そういうとき、小説界という平に慣らされていないままのさまざまな在り方が、剥き出しにあってもよいということが人を救うし、それはさらりと皆が皆飲み込めなくて当然なのではないかとわたしは思った。その「お前のこと全員がわからなくて当たり前」についてはもうちょっと誰かが大きい声で言ってくれないかと思う。いや、でも、こういう実力主義の世界はずっとずっと拓けていて自由なのだと言ってよい。だからもともと当たり前の理解、それから覚悟はだいたいの作家はあるのだと思う。

「人には分からないだろうけど自分にめちゃくちゃ合うもの」を探し当てるのだって小説というものじゃないか、ていうかそういう意味で、浅めの反論にムキになるのもどうかと思うし、反論に気を付けて皆に受けるようにあらかじめ気をつけるのも違うのではないかとふと思った。

 

で、性のことだけれどこれはまさに「個別のもの」だと思う。こういう匂い立つ欲求の部分に対しては一部のうるさく言いたい人が多いけれど、それこそわたしたちが書く前に皆、一様に抱く第一感情の典型例だと思えばよいのである。それをまさに誰かが、自分の代わりにその場で演じてくれているのである。で、書く側はそうであっても紆余曲折があり自分なりの何か理由を見つけたから書こうとするのだとしたら、そういう他人の意見があることは理解出来てもそのために辞める必要はなくなる。何の考えも持たずに皆と足並みそろえてやったことではないのであれば、意見に対してはもうあらかじめ出す前に耐性を付けておくべきだろう。こう言うことに関しては何の考えもなく皆やってるからやってるみたいな人はかなり多い。

 

 

パロディはやめた方がいい

 

あと、思ったのは、パロディについて。これに対しては色々な形があると思う。カバー…だったりオマージュ…引用…思想を継ぐ…で、わたしは中川家のように反意を描くというのだってあっても良いと思う。ただしそれには勇気がいるし、それがくだらなかったら見向きされないだろうから、実際自信がある人にしかできないと思う。でもyoutubeだったり芸人だったりがする単純なパロディが本当につまらないなと最近見ていて思うのは、そこに何の思想も何の工夫も無いからだと思う。子供がテレビ見て、ピコ太郎のものまねしているのと同じ。子どもだったらかわいいけど、大人だったら「僕が本当にやりたいこと」がかなり伝わってくるのでもう本当にやめて欲しい。

それをやる前に、まずはその元の相手がどれほどの熱量と時間を込めているのか、ぱっと見であっても少しくらいでも理解して欲しいという事である。わたしからでも見て分かる他人の努力(他人のもの)のパロディをどうしてやってしまうのかよくわからない。

 

 

芭蕉高浜虚子

 

俳句の松尾芭蕉が気になって句集みたいな本を買って見た。それから芭蕉の立ち位置が気になり、高浜虚子だったり手持ちにある本を探ってみたのだけど、高浜虚子がウルサ過ぎてもう二度と読む気が無くなってしまった。たしかに高浜虚子の句は工夫があって面白みがあると思う。けどこの本を読むとそういううるさみというのは句にも込められてしまうと思った。で、読んでいると偉人、それから俳句界において意義のある人について(その言い方もどうかと思うが…)高浜虚子の視点からいろいろと書かれていて、全体の思想の変化も書かれているのだけど、こういうのを読む前に句集を読み自分の好きな傾向を知ってからでよいのかもしれないと思った。作るときの世界と「歴史」というのは別に交わらなくていいのかもしれないなと思ってしまったのである。何故、こういう世界ではそれがまず最初に語るべき事柄で、必要性のあることで、それに対して例えば自然科学だったりモノ、コト、世界についてはぜんぜん話さないのだろうか。わたしはこの部分は未だ何も知らないのに勝手に色付けられそうだという飲み込めなさを感じてしまう。理解というのは自分でするしかないものでは。そして連句つくるのに数時間かかったとしてもそのときに歴史のことなんて少しも考えていない。音楽、小説、詩、皆すべてそういうものだと思う。寄生獣スラムダンクがすごかったとて彼らは理事とか社長なんてしていないし皆が一様に目標にするべきと言うのも違うと思う。その場限りの賞賛が次の日は消えてしまうことを皆が知っている。それに、歴史を変えることをその一人や限られたグループががやったんじゃない。思想はつねに誰かの複数の手により変えられているじゃないか。なのに、何故、短歌や俳句はいつもこうなのだろうか。

 

 

まあ、不思議なことである。わたしの思うに、皆つねに人間とか人間関係に興味持ち過ぎだと思う。