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本のことを書いてあるブログ

読書に関して

こんにちは。もう暦の上では夏みたいですね。俳句歳時記を読んでみると夏というのは五月六日(立夏)~八月八日(立秋)までのこととなっていました。「春だな~」と思って春の俳句を読めそうだななんて思っていたのに足だけ思い切り別の敷地内に踏み込んでいたみたいな気分になります。


季節的なずれのこと - 名前を付ける

こちらでも季語と季節感について迷っております。(去年)

というわけで昨日は夏の部分の歳時記を読んでました。読書はする気が起きないけど、俳句は読める・・・読みたい・・・


読書、しているとき「すいすいいける!」みたいなこと、けっこうまれなんですが、何も知らない時、知りたいことを調べている時はこういう感覚でいっている感じがします。なにもかもがたのしい。で、だいたい飲み込めてきたくらいのとき、自分なりの記憶が集積されてしまっていることとか、こちらのアイデンティティみたいなのが出来始めて来てる事に対しての話だったりするとそのままで読み進めて行くと、「ちがう、ちがう、全然違う!」みたいな限界が突如でやってくるみたいなことが何か結構ありました。

そうなると今まで楽しかった本だったものがわかりきったことをしたり顔で言っているのでしかないように思えてくる。何かこういうことに対する「いやらしいな…」みたいな気持ちって一体何なのだろう。はじめはむしろ、教えてもらってる感覚すらあったのに、いま読むといろいろが耐えられなくなっていたりする。
何かそのとき感じる「全然違う!」みたいのって結局いま思うに違うとこに行くきっかけだったり、自分なりのものを作ったりするきっかけになってたような気がします。わたしの中では強烈にコレがいずいみたいな感じなんですけども。
多分実際はそんなことはないと思うんですが、この「わかりきったこと」を踏まえて、その上でまたやるっていうのでないと行けない部分ってあるのかなとか、常に新しいものを書いている作家さんたちもこんなふうに自己の更新を余儀なくされていて、だからこちらは面白いものが読めるのかなあと思ったりもします。


いっぽうで仕事においては本当ぺったぺたの雑巾になって毎日繰り返しのことやってるみたいな感じはあるんですけど、でもやっぱり個人でできる範囲が増えてくると気づかぬうち尊大になってくるなにかってありますね。
最近は自分も含めて他人の振る舞いを見ていながら、他人の目って必要だなと思った。


というわけで、読書というのがいやになった時期が結構あり、今もあまり読む気はしていません。
何か「物語に没入できる」みたいな感覚って一体どんな感じだったかなあ…と考えていました。買うときはそれこそ、楽しみにしながら買うんですが、読む段階になると色んなとこに引っかかって気が削がれてしまう。
こういうのも、波みたいのがあるのかもしれないですが。



何が楽しいのかっていう話になるんですが、俳句歳時記のようなものを見てると何かいろいろなこと思い出します。今回、春の部分を終えて夏の部分を読んでたんですが、季節を先読みしてるような感じがあって楽しかったです。
例えが悪いんですが、日本酒とかビールよりきれいな色がついてる食前酒をスーッ、スーッて飲んでいる感じです。とにかく、旨味が凝縮されてるので。



で、歳時記の季語ですが、特に夏のあたりっていうのは学生の頃とか幼少時の夏休みの記憶を凝縮したものが集まっているような感じがしていて、季節っていうのはそういうもので、夏は匂いとかも強くイベントも多いのでその最たるものかなとも思います。

まだこちらは冷えたり暖かくなったりの繰り返しなため、夏の始まりの方の季語を使っている感じです。