久しぶりに俳句歳時記を読んでいます。気が付いたら季節はもう秋に入っていました。
この「秋」というのは暦の上のもので、生活実感とのずれがあるということも書かれています。俳句の上ではこれから来るであろう秋を頭に置いて読みつつ、けど実際にはまだ夏でいるのだというのは共通した認識のよう、というところが面白いと思います。
九月はじまる無礼なる電話より/伊藤白潮
七月をあらわす「文月」は七夕の文を開く文披月の略として使われているそうです。
※七月ー文月、八月ー葉月、九月ー長月
奔放に雲をぬぎすて葉月富士/宮下翠舟
長月の古りし楽所の雨雫/宇佐美魚目
新涼…「涼し」が夏の季語で、「新涼」が秋の季語。
何かこの秋の入り口にある季語には夏から秋へ移る時の葛藤が垣間見えますね。季節の移り変わりを感じつつ、古来に想いを寄せ、俳句作りをしている人に共感を感じて詠んでみるのが楽しそうです。
作るときの苦しみ
ここのところ、短歌、俳句に触れない日々を送っていたのですが、久しぶりに作ってみると全く感覚が戻らないのでなかなか焦りました。こういうもの、一日だとしても離れてそのご再開してみると「毎回、全く乗れなくなっている自転車」みたいな感じがして怖かったです、「ぜんぜんやり方が分からない、、、はあっ!はアッ!!」みたいな感じが一人でしていました。そういう時はとにかく分からないままに試行錯誤するしかないですね。本当に「つくる」と「よむだけ」って全く違いますよね。サボってるあいだずーっと自分のやつをこねこねいじいじして遊んでいましたが楽しさしかなくてまさにこれはお楽しみタイムだったと思った。
「ぜんぜん出来へんやん」、それで一度でもちゃんと出来たという実感があればセーフ、出来なければもう二度とやりませんっていう精神状態になります。その、単に五分くらいの時間なのだけど無我夢中で崖を登る原始人みたいな気持ちになっています。
最後に拙句をば。
ブレーキに九月の卵達押し寄せる
文月に芋炊く夢の中炊ける