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本のことを書いてあるブログ

江戸川乱歩作品集(途中)

江戸川乱歩作品集Iを読んでいます。ちょっと前から読み始め、短編数話を読み終えたあとで今日は「蟲」を読み終えました。

 

なんというか、江戸川乱歩の語り口って独特ですね。「これは、事実を元に書き起こした手記であり…」のように現実にあったもののように書いてあるものが多く、そのへんが江戸川乱歩のユーモアなのでしょうか。

たしかにリアリティがある。

いまのところこの短編集では一人称のものが多いですが江戸川乱歩、文章的な比喩や表現にこだわる人ではなさそうです。(なんか、あっさりめだな〜)と思って読んでいると物語の深みにぐいぐいと引き込まれていく感じです。

「蟲」もそんな感じで、何か人文科学的な側面がありつつも最後は凄かったです。

複雑な構造の中に連れ込まれていく感覚、つらみや上がり下がりを駆け抜けていって最後の落とし所にたどり着く感覚は心地よい。

 

しかしこういう人間の裏側に潜っていくもの、多くありますが読んだあとでダウナーになってしまうものもあれば、一方である意味軽さが伴っているためそうならず単純に楽しめるタイプ(江戸川乱歩はそんな感じ)だとか色々とありますね。わたしは最近はダウナーな部分を探っていくその事自体には「遊び」以外のなんの意味があるのと感じてしまうのである。

とにかく「疲れること」を避ける傾向にある。

 

全然性格は違うだろうけど何か少しばかりか「分かる」みたいな感覚をも得れるのが不思議な感じがします。ミステリーではありますが推理やそれを暴く側から追い詰めるという手法ではなく、犯行に及ぶまでの心理的な部分を江戸川乱歩はこの短編集で事細かに記述しています。

 

 

本、定価で買う?

ところでちょっと前に「本定価で買う」という話があって、わたしはそれに対して「フーン」という考えしか持っていなかった。わたしはばりばりに古本で100円の本を買って読むタイプで、そうでなくても正直、本は高すぎると思っていた。図書館は普通に利用するし、100円、200円くらいのを見つけるまで「買う待ち」していたりなどもする。ケチ、というか、普通のことだと思っていた。読書とか本にそれほどのファンタジーや興奮を感じていなかったのだと思う。いわばそれは、単なるツールだったのだ。

 

けど最近は、いろいろ読んでいくにつけて、「定価で買うのもいいな」と思うようになってきたのである。それはいつかみた株を買って企業に投資するのと同じことのように思う。この作者、面白いなー、もっと、面白いもの作ってほしいなあと思ったら、古本で入手するだけでなく、どうせなら本人の手元にいくらか入るように買ったほうがどちらとしても心地よいのでは?と思いはじめたのである…

 

これは「本、定価で買う。なんでかというと一冊の本を作るためには色々な手間とたくさんの人が関わっていて、うんたらかんたら」という話を聞いて思い起こされた感情ではない。もうそのへんは、クリエイトする側が発しているパワーみたいなものだと思った。

きれいなもの、いいもの、そういうもの、もっと世の中に広まってほしいって思うのが人情だったりして、それを分かりやすく教え込まれて直ちにやるのは企業側の人だけでいいんじゃないでしょうか?

あくまでわたしは買う側の考えとして、売れてほしい、もっと作ってほしいなと思ったらもうそれは何かおやつ我慢してもそのものを定価で買おうって思った。