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本のことを書いてあるブログ

SNS漫画からパワーハラスメントを回復させる手段について考えた

セクハラ、パワハラ、いろんな「ハラスメント」が話題になる昨今です。

こういったワードはひとつの構造を思い浮かべやすいので便利で、濫用されることが多くあるものの権利の回復という面からして言えばメリットが多いかと思います。

 

言葉のニュアンスについて。例えば「いじめ」

 

それと似たものに「いじめ」というものがあります。わたしはいじめられた経験がないのですが、この言葉は非常に微妙なニュアンスを持っていると感じます。色々な経験をしてきた大人であれば、大人でも、警察でも間違いをおかすことはあるということを知っていますが、子どもからしたら「その他の人」「大人」「先生」は絶対正義だともいえます。「いじめ」というのはその他の人たちが付けた理由で排除されかかるという構造があります。だから、「いじめられている」と言うと、「あなたにも非があるのでは?」と想像する人は必ず、一定数以上います。もし、誰かをいじめから救いたいと思うのなら「あなたは百パーセント悪くない」と言い切れるタフさが必要なのです。これは、百パーセント精神論ですが。

いじめという言葉から想像されるニュアンスと共にあるとき、事実を紐解く明瞭さ、喧嘩両成敗のような公平性よりも「いじめをするな」という精神論がなくては、その他の加害に加わる人の暗部を消すことは出来ません。間違えて欲しくないのがいじめ=喧嘩ではないということです。

それはいじめられている側からしてもそうで、常に「お前が悪い」というメッセージをその他の人から送り続けられている人からすると、事実や過失を並べていき公平性を保って解決させるよりも、「絶対に悪くないし、いじめをする必要性はない」とひと言言ってあげる方が大切なことだと思います。

「でも、こうした方がよいのかもね、もっと強くなろう」という公平性のある意見はいじめから抜け出して仲間を得て強くなってからでも良いのです。「いじめをするな!」はワガママでもなんでもなく、当たり前の権利です。公平な眼差しで物事を見るようになれるためには一人きりでない他人の支えというのは必ず必要です。

いじめに介入する大人はそういう生半可ではない意思が必要で、いじめられている子どもからしても「僕はいじめを受けています」と訴えるのはそれくらい勇気のいることなのだと知っていて欲しいと思います。

 

SNS上で見る自力救済エッセイ

 

で、話は戻りますが、パワハラ、セクハラを訴えるためや受けた事実を晒して自己救済に当てるようなことがSNSや一部の文学では多く見受けられます。

けどこれもまた見ている限りでは一定数の人の不快感煽るという面があります。これは、悲しいことです。共感を得たい、自分の傷を少しでも回復させたくて自力でしたことが、また新たなる悪意を生む…どうしてかというと、それは人々が見たくない暗部だから。また、自己主張をする人間を、人は好かないから。

悲しいけれど、それは事実でもあります。

わたしの思うに、こう言ったことは分業で解決するべきだと思います。

 

1、自己の受けた精神的な傷→医師、専門家へ

 

2、権利の回復→法律、上司へ

 

3、共通の理解を得たい→しかるべき言語で論理的に整理する

 

そうでないと二次災害は起こり得ます。傷つくのはだれか…と考えてみると、こういった目に見えないことに対してはよりもっと慎重になるべきだと感じます。なぜかって?人の意思によって事実は変質するからです。証拠をもっと大切に扱いましょう。それは自分の権利、ひいては命に関わっていくものを回復させるための大切な事項です。

 

社会経験が少しでもあれば、どこへ言っても理解に苦しむ人が必ずいることは知っていると思います。

少し前「馬鹿と関わるな」という本が推されていました。あれは個人的な経験が多過ぎること、書き方が荒いことでわたしは賛同できかねるのですが、一理あるともいえます。はっきりいって、関わらない、もしくは馬鹿を上手く利用していくというのが最良なのです。

 

馬鹿の特徴

 

馬鹿の特徴をあげてみます。

1、異常に復讐心が強い

というのがあります。ご存知の通り馬鹿やいじめっ子というのは世渡りが上手い、というかパワープレイで人を押し退けていく能力が高いので、何か一つでも意見を言おうものなら、馬鹿の「これから復讐する奴のリスト」に入れられてしまいます。

マジです。

 

2、馬鹿は変わらない

ご存知の通り、馬鹿は死ぬまで馬鹿なので、絶対に変わりません。変わるのだとしたらバイクで事故って全身挫傷するくらいの傷を負うなり命を失いかけたときくらいです。とにかく「自分は、馬鹿だ」という意識がないのが馬鹿。馬鹿に変わる必要性を説いても無駄です。

 

3、馬鹿は、視野が狭い

馬鹿は、そのフィールド上ではいいとこにいても、他の場所では一般人であることを想像出来ません。「きちんとしなければ相手にされない」ということが想像もできないので礼儀も常に欠いています。本当、馬鹿にしか見えない。

 

4、馬鹿は、勉強しない

馬鹿は、素直じゃないので知識を貪欲に吸収せず、成長速度が遅い。

 

というわけで、馬鹿を掃除しようと思うのであれば時間を浪費することは想像に難くないかと思います。(注すべての馬鹿がこのような要素を備えているのではないです)

 

手段について

なので、もし権利を回復させたいと思うのならこちらも心構えを正す必要があると思います。馬鹿の願いは「自分か幅をきかせる未来」「文句言う奴がいなくなること」で集団の利益やクリエイティブな目線はすこしもないため、互いに利益が重なる未来はまず訪れないということと、自己の利益のために利用される可能性すらあるということを念頭においておきましょう。

なので、上に書いたように「ダラダラと、不平と不満を述べる」というのは「うるさいやつだなー」とこちらの失点のように見なされる事になります。

もしあなたが権利を、回復させたいのであれば

 

1、馬鹿と自分よりもずっと偉い人に訴える(その場に馬鹿は居ない方がいい)

 

2、皆の前で名指しで暴露する

暴露するときはタイミングに注意。皆が楽しんでいる場でいきなり話しだすんではあなたも馬鹿の仲間入りかもしれません。たとえば誰かが言い出したついでに「実は、わたしも…」と事実のみきっぱりということで馬鹿の罪深さが露呈し、あなたの事実の重みを皆が受け止めようと感じます。

「話の流れ」というのは目に見えませんが想像以上に重大なことです。ここで大事なのはいかに辛かったか、ではなく「あくまで権利を救済すること」だと割り切ってください。

結果として、その方が馬鹿にダメージを負わせることができます。

 

3、証拠を事細かにノートに記しておく

自分でも結構忘れてしまいがちなのと、感情は風化するため。

 

まとめ。馬鹿に飲まれるな!

 

暴露したあとそれほど権利が救済されなかった…!でも別にいいのです。社会にはそんなケースがごまんとあります。辛いことだらけでもなんとかなります。馬鹿の行為にいつまでもくさくさしているよりも、「五百円貸して、返ってこなかった」程度に受け止めて人生を楽しみましょう。

また、暴露したあとで周りの人がどんな風に行動するのか見ることで処世術も身につくし、人間というものを見る目が養われます。なんの経験もない人よりもつらみ、かなしみのある人ほど人に優しくできるのです。声を上げなかったとしてもどんな場所にもあなたの味方は必ずいるし、経験を得たという点であなたは決して損はしていません。

それから、馬鹿は表立ってよいしょされていても裏ではほぼ全員から馬鹿にされているものとして割り切りましょう。あなたが傷を追いながらその暴露を担う必要などないのです。