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本のことを書いてあるブログ

破壊(島崎藤村)/分析心理学・自我と無意識(ユング)

破戒/島崎藤村

 

また、まんがで読破シリーズです。身分制度が撤廃されたとはいえまだ人々の中ではその差別が色濃かった頃の、えたとされていた主人公の物語。主人公はえたの人たちが集う部落を抜け出し、かつての身分を隠しながら教師をしています。父親は息子である主人公が人から差別を受けないよう、注意深く、決してどんなことがあっても軽はずみにそれを明かさないように約束させます。そしてその約束や人びとの無意識からくる区別、当然のように為される吐露は主人公をいろいろな意味で縛り続けます。

主人公は同じ身分でありながら人権活動を行うある作家に対して尊敬の念を抱いています。しかし、その人と実際に会った時主人公は自分の身分を明かすことが出来ません。結果として未来は枝分かれしていきます。同僚から妬まれた主人公はえたである事を暴露され、自身も自分らしく生きることに対する葛藤がついに父親、ひいては身分制度によって起こるあたりまえの差別を個人で受け止める覚悟のようなものを得ます…

「人が人として扱われない怖さ」というのが巧みに描かれていて、想像力の欠如した日常の思考の峻別のこわさは思い当たるところが少なからずあるのでは。

ああ、人間はこんなにも社会的な生き物だったのだ。支配者階級に用意された身分制度とはいえ、そこからまったく離れて、自由に生きることは自覚的に生きているひと握りの人びとだけ。それも常に勇気、自立心を求められる…と考えるとこれは、なかなか体力のいることだと思います。

気になったのは巻末に記載されていたこの本が身分差別につながるとして批判されていた事があった、という注意書きで、この内容で描かれているのはその身分制度で引き起こされた人間同士のしがらみと葛藤でありそれは差別することではなく人と人の理解を促すのに繋がるはずが、それを全てを理解しようとしない動きは何か、人間の心理を表しているような気がした。「こわい」「不安」「得体の知れない」「理解できない」「自分の存在、世界の認識をおびやかすおそれ」全てに蓋をしたくなる。それは本当に、自分の身に起こらない限り開ける事の出来ない扉なのだろうか。

 

 

 

分析心理学・自我と無意識/ユング

 

ユングの思想、理論をまんがで??ということで、どんな感じなのだろうと思って読みはじめましたが、そんな心配はよそにとても中身が重厚で分かりやすかったです。ユングが思考を練り上げていく過程で、ある疑問提起から→ひとつの答えの提供がなされますが、そもそもユングの発見したことがかなり膨大でとてもひとつの発見には止まりません。それが一冊の中で何度も繰り出される構成には「なるほど、、!」と膝を打ちたくなるような気持ち良さがある。

 

ユングというのはこんなに豊かな想像力に飛んでいて、そのうえ自制心もあり、かっこたる家庭も築けた人だったんですね。

 

ユングの人柄

 

ユングは途中、家庭というものを持つ重要性について話しています。例えばニーチェは現実に土台を持ち得なかったので内的世界にはまり込んでしまった、とも語っており、内的世界、無意識の重要性とともにそこで現実感を常に保つためには自制心だけでなく周りのものも必要だと自然と考えられるひとだったのでしょう。

何かこういう有名な理論を打ち立てる人って時々太極拳の使い手のような人がいるなあと感じます。ユングも言っていた通り、自分では勝てないものの存在をはじめから把握しているような…剛よりも柔なんでしょうか。

 

ユングの思想、フロイトからの独立

 

宇宙、生命、心理、無意識、それを象徴化する曼荼羅夢分析。それから、ユングの夢に出てくる老人と少女。あらゆるものは対立する概念を持っており、それの中庸を人は目指すべきであり…だとか、全ては自己の中心へ向かっており、目指すのは自己の確立なのであるーーなどなど。

 

フロイトの「全ての精神衝動は性愛につながっている」という論に疑問を抱きつつも、まだかっこたる自分の思想の土台さえ見つけていなかったユングが一人独立するのには相当な勇気のある行為だったのでしょう。なんとユングは独立以後も思想の手掛かりすら掴めておらず、しばらく何かを成すわけではないのです…ただぼんやりとした、可能性を抱いているわけです。

ここがまずすごい。かっこたる「何か」を信じて、全存在を委ねる…ってものすごくデカいと感じます。

 

無意識と意識について足で得た思想

 

ユングはひとつひとつの考えへの確信を得るために数年など膨大な時間をかけていて、アフリカへ旅したりアメリカのインディアンの地へ訪問したりなどします。

まるでアフリカは北方より迫りくる脅威から身を守るべく太古から存続し続けてきた意識の薄明な原始状態から抜け出し、自分自身の存在に目覚めようと備えつつある思春期の世界であるようだ。

 

ユングはアフリカにひとつの強い共感を抱いています。その地に訪問し、現地の人たちと関わり合いうなど、また夢を重視していたアフリカの人たちの夢分析の働きについて新たな知見を得るとともに、アフリカ人達が情動のままにふるまい生活し、そのなかに自分の存在を形成しているという発見を得ます。例えば太陽に向かって手を広げることが生命の原始的な欲求に繋がっている…などなど生活様式、儀式が自分達文明的と言えるような生活と違っていることから無意識の働きと意識の働きへの作用への関わりも深めていったのでしょう。

集合的無意識関連の話は難しかったのですがそれは個人的な意識自体が全体的なものからもたらされている、というような話だったと思う。

ちょっとドグラ・マグラを思い出した。人は常に周りの影響を無自覚にでも水晶のようにぐんぐん吸収している個体なんだと思います。

 

一方、インディアンの場合

 

アフリカの人たちが無意識(情動)に関わりのある生活を送っている一方、インディアン達はより自制的、意識的に神と自分たちの繋がりを見出し積極的に神の世界(自然、無意識、集合的無意識?)へ働きかけているところからそのひとつの人間の意識に視点が注がれているようです。

 

だが私が体験したアフリカでは獣たちのメランコリックな雄叫びの他はなんの物音もしなかった。つまり獣たちはまだ「この世界」なあることを知らず「非存在」の状態にあるのだ。

 

そしてその無意識の状態を「知識」によって抜け出したのが人類なのである

 

何かを考え続けたうえで必ず自分なりのひとつの答えを得るユング。答えを得る、というのはもたらされることなのだと思います。大切なのはそれが降ってくるまで待つ姿勢なのかもしれない。傲慢にならず、準備を怠らない…なにか、生き方まで教えてもらえるようです。

 

まとめ。ユングのすごさ

 

驚きだったのはユングの発想の豊かさでした。

ユング自身、それを芸術的なものとして昇華させ、自身を評価されるかどうかという葛藤もあったようなのですが、ある時夢を見、そこで英雄にはならないというお告げのやうなものを得ます。つまり、ひとつの答えを得るために栄光、虚栄があってはダメなのだという答えをユングはここで得ます。

 

ほぼ一生をかけて心理学の大きな発展に働きかけたユング。何かつまづいたりするごとに深く自己を分析して、ひとつの発見を得る姿勢と、それにより多くの発見を得る彼の姿勢には見習いたい部分もたくさんありました。何か無意識に耳を傾けて従おうとするなど、アルケミストと繋がる部分も多くありました。

 

 

 

 

以上で〜〜す!