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本のことを書いてあるブログ

まんがで読破 カラマーゾフの兄弟/ドストエフスキー作

まんがで読破 カラマーゾフの兄弟

 

 

カラマーゾフの兄弟―まんがで読破

カラマーゾフの兄弟―まんがで読破

 

 

読み終わりました。(漫画版ですが)小説の方も読むつもりですが、とりあえずまとめておきます。

物語のあらすじは、タイトルにあるとおりに貴族であるカラマーゾフ家の父親、それから三兄弟をめぐる欲望に関するもの。

豪胆で奔放な長男、ドミトリー。頭脳明晰なイワン、それから心優しい修道士のアレクセイの三人はそれぞれ性格も行動基準も異なりますが、強欲で女好きな父親に振り回されているところは共通しています。なかでもドミトリーは自分の愛する女、それから財産まで父親に取られているため父親に対する恨みというのが強く、家族間で殺し合いが怒るのではないか、と街中でも噂されるほどである。

時代はまだ身分が解消されつつある、けれどまだ完全に農民が自由の身を得ていない頃。ひと扱いはされても、精神的にも物質的にも下に見られている時代です。

 

ドミトリーと父親が対立する中、二人の女(男を弄ぶ魅惑的なグルシェンカ、知的で気高いカテリーナ)との絡みも出てきます。グルシェンカははじめ愛人とか父親とか金目当ての感じがありますが、最終的にはドミトリーの愛情の強さに傾いたよう。ドミトリーは二度グルシェンカにサプライズ的なデートをけしかけますがこれはなかなか的を得ていると思いました。ドミトリーほど情動が強ければ無理やりものにしちまうような感じが想像されたけれど愛は純粋だったんですね。サプライズ、って路上でやっているようなやつとかいきなりケーキ持って出てくるようなのを思い浮かべたりもするけど、それは何か今っていう刹那を、あらゆる物事を置いておいて共有したいっていう気持ちなんだなあと思った。そういうのってあらゆる「楽しむ」行為に似ていると思います。料理作る、パーティする、何に対しても準備段階の多さ、長さよ。それに対しての対価は、その時点では求めていないのである。純粋じゃないですか…?何か。

で、イワンは→気高いカテリーナのことが好きなもよう。イワンは一度そのカテリーナの気高さに嫌気がさしますが、結局くっつくようです。わたしは一度断ったイワンは偉いと思いました。

 

イワンていうのは物語の後半くらいから中心になってきます。途中から生じる「悪魔」は何かに取り憑かれたイワン自身の実態であったのか、良心の変質したものであったのか。けど、もし漫画を描くとしたらイワンみたいなやつを主人公にしたらかっこいいだろうなと思った。

 

アレクセイはその優しさから物語の源流に流れている「人という弱いもの、それが従うべき己の良心」について説きます。

イワンがアレクセイに話した犬と子どもの話は、国が秩序を持ち得る前の状態であれば、もしかするとどこにでもあった光景なのかもしれません。いまや本や漫画の中でしか見なくなった人間の本質に眠る残虐さ、ですが、これはやはり人間が集団でいることと、相手が立っている状況に身を置いたり、共感するための想像力を欠くことで幾らでもスイッチが入ってしまうものなのかもしれません。

 

 

わたしが思ったのは、すっごい複雑な物語!ということであった。人物がそれぞれきちんと描かれていて、その関係性も複雑に絡み合っている。小説というのはいったいどうやって書くのだろうと考えたりしますが、こういうのを読むと、事実ひとさじ、残りはフィクションだったりするのかも。事実も経験もまったくのゼロからここまで書き上げることは難しいだろうなあと感じた。

人物描写も際立ってくるのは人と人が対立した時かもしれません。理解し得ない個人同士の争いが出てくることで、キャラが分岐し、個性が深くなってくる。まあ当人たちは大変だとも思いますが、その辺のストーリーというのは見応えがある。

 

物語のやま場はいろいろありますが、イワンが使用人からその出生を告白された時でしょうか。まるでそれは、人間があらかじめ背負っている原罪をはじめて意識する瞬間のようでした。イワンが直接的に悪いというわけではありませんが、父親の存在、それから自分のしていることを他者の目から見たときに公平性の面で揺らいでいく。

 

この、「まんがで読破」で何度も描かれていたのは、欲求を正当化する人間と、その欲求の出所、そしてそらをそれぞれの個性が解消しようとする方法についてでした。欲深い、または利己的にも見えるような行動をする前にはそれぞれにそうし得るような理由があり、そして自分が報われる方法を最善として選ぶ。

その時、思考回路の中ではおそらく「◯◯が悪いから、自分がこうすることは正しい」という正義が成立しています。つまり、自分というのは他と比較して幾多ある道筋のなか、多くの人が見てもそうあるべきである、と思えるような道筋を、自分自身の正義という落とし所にしているのである。しかしそれは実は社会から押さえつけられたとき、または良心の呵責が起きることで揺らぎやすい「論理」でしかなかった。そしてそれを、個性という恣意によって選んでいる。絶対的な正義、というのは存在しなかった。

その正当化とも言える選択は、多様な人間(貴族との身分差がなくなった以後の世界にしてもそうです)を知ることで変わり得る。アレクセイが唱える人びとが手を取り合う、平等な世界はイワンから鼻で笑われてしまいますが、ドミトリー(途中からミーチャになっている)の変わりようを見ていると人からの信頼、それから転落、挫折を味わった後で心から理解し合うことの意味を知ることでその価値を知った後でなら、変化し得るものなのかもしれません。

アレクセイやグルシェンカが最後に口にする「信じる」という言葉が、これで結局有罪となってしまったドミトリーの支えになります。人と人とのつながりを無くして人は真っ当には生きていけない。けれど逆に、それさえあれば、間違えずに生きていけるのだと感じます。

 

神についても書かれていますが、神のような見えないものを求めることは一見愚かにも、頼りなくも見えるため、手っ取り早い周りに映るものにしがみつくというのは人間の当たり前の行動なのかもしれません。けど見えないものの方こそ大きいようにも最近は思います。そしてそれを体現し、存在するように見えるよう手足を使い、説いていくのが人間なのだと。

 

 

 

ざっとまとめなので、ここまで。

小説の方は「一、二、三…」とかなり冊数別れていましたね。正直、読めるかわからない。

まんがで読破シリーズは、思ってたよりも良いかも。