名前を付ける

本のことを書いてあるブログ

カンガルー・ノート/安部公房

カンガルー・ノート/安部公房

 

カンガルー・ノート (新潮文庫)

カンガルー・ノート (新潮文庫)

 

 



読みおわりました。ある朝、脛から「かいわれ大根」が生えてきていることに気がついた男は、病院へ行くのだが、それに通じていたのは夢とも現実ともつかないような、旅路のはじまりだったのである。

 

小説の読み順について…

小説家にハマりたいときは、指南役の人をつかまえておき、その人の紹介で読み進めるのがよいのだと思う。わたしの場合は箱男砂の女→他人の顔→カンガルー・ノートの順で読みましたが、カンガルー・ノートは抽象的で難解だといえます。安部公房にもう既にハマっていて、安部公房の頭の中を知りたい…!というのであれば、面白いのですが、はじめて手に取ったのであればちょっとむずかしい…そんな本だった。

 

安部公房の作品に共通しているというのは、悲しいほどに主人公が大それたことをしないということである。誤解しないでいただきたいのは、つまらないとかそういうことではない。例えば、箱男にしても箱の中にいて、外の医者と看護師とのコミュニケーションに戸惑っているだけ。それから砂女に関しても、捕らえられて、出られなくなってしまっただけ。それから他人の顔に関しても、顔を失ったという事件があるが、その主人公が最終的に求めるのは妻との関係の修復だったりする。これがもし、他の小説だったりしたら、色んな女に手を出すなり顔を利用して犯罪に手をつけるなりするほうが、物語は膨らむのかもしれない。けれど、むしろそうしないのが安部公房で、そのままでいる自意識、葛藤、それから、なんてことないものにも焦がれる日常を描き出す。なんだ、これは、わたしたちも日常的に感じている感情ではないか。世間という箱の中に捕らえられて、分かっていることに対して分かりきってもがく。そうしてまた、分かりきった涙を流して、馬鹿馬鹿しい自分と一緒にまた生きていかなければならない。その主人公の感情描写に、やはり毎回引き込まれる。

カンガルー・ノートというのは、筆記用具会社に勤めていた主人公がまさか採用されるとは思わずに何の気なしに提案した案である。主人公は、有蹄類という生き物が進化論の面からみていかに「本物」(わたしたちがみている分には)に対する模倣的な面があるのかを説き、その偽物っぽさ、それからみじめっぽさを語る。小説内にカンガルー・ノートはあまり出てこないのだけど、このカンガルーという有蹄類に対する考え方と、かいわれ大根が生えてくるという異様な、それから異質をともなう自意識が、安部公房の作品全体を覆っているものなのかもしれない。

数回出てくる「かいわれ大根があるせいで、他人とは分かり合えない」というような記述は、 箱男の持つ自意識とも似ていますが、箱男の箱は着脱可能な住処で、他人に伝染するという何か公に繋がるような性質を持っていたのに対して、かいわれ大根の場合はよりもっと、異様な感触になっています。まず、その生えてくる様子。それから、それが枯れたり水に濡れたりするさま。それを食べる主人公、それから、吐く医者…徹底的に、主人公は、その視点によって間接的にあらかじめ傷付けられています。こういった、あるいは存在していること=罪の意識

に繋がるような感覚が、分かち合えない部分に行ってしまうこともあるのでしょうか。

 

けどこういった感覚、つまり「他人と何故より分かり合えないのか」「違和感」をさぐり続けると、それは他者と自分の身体を同一に出来ないからです。感じ方が違い、同じ場面で読み取ることが違い、体質も違う。一個のからだをもっている限り、それは限りなく相手に寄せることはできるけど、絶対にひとつにはなりえない。その当たり前のことが孤独に繋がる時人は、けれど、絶対的な自分というものを感じざるを得ないのだと思います。自意識を深掘りしていけば、その自分にしかあり得ない感覚にたどり着く。その時点で、救いはありません。何故ならそれは自分であることが理由で、分かち合えない部分を手に入れるのだから。

そうしてそれを、また公の分かりいいものに載せて流布する、という矛盾。書く、ということ、それにはいくつもの矛盾があり、まじめに考えようとするほどに、そこには人間というエゴの働き、それにともなう食欲、性欲などの欲が秘められていることに気がつく。

人間は聖人にはなれない。そのことに気付くと、当たり障りのよいものをもう、何故だか読みたいと思えなくなる。

 

まとめです

巻末のドナルド・キーン氏の解説にもあったけれど、全体を通して安部公房の文章というのにはユーモアがあり、ちょっと笑ってしまいそうになる箇所もいくつかあり、なので難解ながらも読み進められます。

書かれていたような死をテーマにした小説という視点はわたしにはなかったのですが、生に対する反発という考えも出来るのかもしれません。