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本のことを書いてあるブログ

過程とともに好きになる本ー「小説は売れない」について、個人的に考えました

小説は売れない、儲からないの話

 

タイムラインで、「小説で食べていくのは難しい。そもそも、小説というのは理解されにくく、ハードカバーの単行本は売れにくい」という文脈のツイートを目にした。こういう話は、以前から目にしていた。そもそもわたし自身、小説をあまり読まない方だった。

 

小説というものがむしろ嫌いだった

なぜ読むようになったのかというとそれはあるきっかけで小説を書いてみたいと思うようになったからである。なので、わたしの場合は再生産したいという考えがある。もちろん、そういったよこしまな事実以外にも本を読むことで得られることはたくさんある。まず、日本人の価値観。それから、人生を営むうえで、壁にぶつかった時に開ける自分の引き出しが増える。本を開くと、そこには人がいるかのような感じがして、対話する相手が増えたようにも思える。活字に強くなる。表現、比喩が出るのが早くなる、など、たくさんのメリットがある。

 

現に今、Kindle UnlimitedというKindle のサービスに加入して、月に少なくとも十冊、その中で小説も二、三冊くらい読んでいる。これはメモしてある分なので、途中で読むのをやめた本、記録するのを忘れた分を入れると倍近くになるかもしれない。その他に古本屋にも毎週のように言って本を探す。けれど依然として自分の中には「本、読むのメンドクセェ〜」みたいのがあるのである。

だから、あなたはもう小説を読んではいけません。今、死ぬのと、死ぬまで小説、読まないのとどちらが良いですか?と言われたら、迷うことなく「読みません」と答えられると思う。小説というのはそのように、生きていくうえでそれほど必要のない地位ちあるのではないだろうか。たとえば、人と人との感情の触れ合いやほとばしり、ストーリーの面白さに触れたいのなら他の娯楽がある。小説というのは、時間と体力と、はずれを引いてしまうという博打的な要素があり、だから普通に単なる趣味で本をかなり深いところまで読んでる人が居ると「ほんとうに、楽しい?」とわたしは聞いてみたくなる。小説、って、わたしは書きも読みもするけど、なんとムダの多いものなんだろうか。おまえの勝手やろうが!と言いたくなる本もたくさんある。けど多分、それをのちに書評サイトなどの感想と照らし合わせて、まるで「うちのクラスにいる変な奴」について話すようなこも、それもまた面白い。施川ユウキさんの「バーナード嬢曰く。」もそんなストーリーの多い漫画であり、これを読んでいるとつい、本を読みたくなる。「バーナード嬢曰く。」はわたしのような読書素人だった女の子が読書家の友人とともに本を読むようになる…という話だけど、このように、周りにつられて読んだり、同じ話をしたくて読む、という動機は大いにある。けど、おもしろくないものを読んでいるときは事実としてツラい。消耗した時間、その後、自分を取り戻すための時間を思うと「あ〜ッもう!!」と叫んで、わたしはクソみたいにうるさい本をゴミ箱に足で埋めるなんてことを実は何回もしている。

だったら、一体なんなのだ…本を読むことって…

思うに、日本は文芸、芸術が一般教養としていまあまり認知されていない。昔であれば、いや海外のほうかもしれないけど嫁入り前に音楽、ダンス、詩を習ったりするようなこともあったらしく、プロでなくても自作のものを友人の間で披露するような文化もあるらしい。生活に直接繋がる部分以上の分野というのは、日本はまだ未発達なのかもしれない。けど今は、そのフツーがない。小説を読んでも、それを語る場がない。再生産する必要がない。

普通の感覚で、再生産、したくなりませんか?例えば本日記つける、だの、みんなと話す、だの、そこにも目的があるような気がする。

 

単なる趣味で本を読む、ということに対してだから、わたしはなかなか理解できないでいるのだった。文章に触れる、活字を生み出す仕事をしている、というのなら理解できる。でもはっきりいって、どんでん返しとか真の恋愛に触れてある小説とかふれこんであるものを見るのってかったるくないんだろうか。「泣ける」みたいのもわたしは好きではない。特に泣きたくないのに泣かされるなんて、陵辱されるような感じさえ抱いている。

 

これだけ読んで来てもわたしはもし、無人島へ何か持っていくとしたら何を選ぶかと聞かれて、小説をあげるかどうかわからないと思う。そこに入るほどに大切な、自分の琴線に触れてきたもの、人生の見方を変え、読んだあとの今も影響を与え続けている本がいま、自分の中に何冊あるのだろう。

 

本の媒体、雑誌

それから、本の雑誌、紹介する媒体の取っ付きにくさがある。

ダヴィ◯チやユリ◯カ、文◯春秋のような本の媒体は、ちょっと前に言われていたような意識高い系の人たちの雰囲気が醸し出されていて、だから純粋に「面白さ」「興奮」を得ようとして手に取ると、鼻白む。そこにあるのはどうしても、本という知的生産、ひとつかみの人にしかわからない文化圏を語ることで得られる何かを流布する人たちの雰囲気が漂っていて、だから家電の雑誌とかLDKのように純粋におたくを極めようとしている変な人というのはあまり居なく、これこそ再生産を目的としたもののような気がしている。だから、小説を読む=小説あるいは他の文芸を書きたい人???のような感覚はやはり、あるのではないだろうか。そういう部分を否定するわけではないが、当たり前の「なるべく」前提がたまに怖かったりすることがある。とにかくねじり鉢巻巻いて、クリエイトするぞ、するぞ、みたいなことがいっぱい並んでいるとかそういう部分である。そしてそれに対して否定を述べることは、許されていない……

おたくみたいな雰囲気がわたしは好きなのである。だから「おたく」の人は本来、共有するためでなく、面白みの部分をごりごり掘っていきたいだけの変人であるので、やっていることが無駄き見えたり、意味不明なことが多い。不必要が多い。でもその分、その人が独自に得たであろうストーリーの面白みというのは、半端ではない。そういうのに触れるとドキドキする。が、意識高い系の人たちのいうことは、何か、そういう感覚をはたき落とすようなことがある。ああ、すごいね。すごいって思われたいんだなあ、わたしも、思われたかったんだなあ、そういう人間同士の変な欲の絡み合いに絡め取られていく感じがたまらなくなることってある。

だからもう、一冊買ったあとずっと買わなくなる。

 

ところで売れている漫画というのは売れている少年誌に載っているという事実がある。少年ジャンプの漫画は群を抜いて知名度も高い。そしてそういうのは、手にとって立ち読みするだけでも普通に面白い。別に難しいこと考えなくても、ふつうの自意識で少年誌とか青年雑誌はストーリーがわたしたちと重なるし、何かを先立って教えてくれようとする。こんなのがあるなはもう、出費が多く、取っ付きにくく、得られる部分も同じ程度の小説なんて読まなくなって当たり前である。

 

自分の場合の小説読む

 

小説は、絵を持たない。わかりにくい。一人称、三人称という決まりもなくて、なんの説明もなく唐突に作者の一人語りが始まったりする。つまらないものはつまらない止まりだけれど、それに引き込まれる事もある。良い小説というのは、ひとの感情の琴線というものを知っていて、そこに何回も触れてくるものだと思う。すごい人はそういうシチュエーションを毎回故意に作る。売れている人はエンターテイメントの中に仁義も入れ込めて、しかも面白い。そこまで行けば職業なのだと、きっと胸を張って言えるのだろう。

 

わたし個人の意見でいうと、やはり小説というのは扉が狭く、取っ付きにくいものであっても良いのだと思う。だから、それが理解できるようになったというのは、まずひとつ大人になったことでもある。だから一冊読み終えるごとの満足感が大きく、趣味だと胸を張って言いたくなるものでもある。読書ってやっぱ、立派な趣味だ。不完全な佇まいではあるけれど、対価も大きい。こちらに語りかけてくるような小説はわたしは本としてあまり好きじゃない。やっぱり本というのは、寡黙で、読まれない間もなんか気になり続けるものである。それで自分が買いたいと思った時に偶然発掘するもので、読みたくなかった期間もその本そのもので、発掘されるまでの年月や、自分が見つけた理由なんかも込みで、長年愛着を持ちたくなる存在なのだ。こうやって、ひとつの「ハマる」という感覚を得たあとでは今まで距離のあったものであるほどより、深みにハマりやすくなることがある。そこに疑問、沼、外れが多いほどに、達成感は増える。ディグッているのだ。書くときも、読む時も、つねに。

ビブリア古書堂の事件手帖で「古本の持っているストーリー込みで、手に入れたい」という人間が居たけれど、そういう本にまつわる紆余曲折というのを、本読んでいると、人は語りたくなるものなのである。だから、すき、きらい、そういった第一感情に、本そのものの価値が左右されるようなものでない…と思う。多分、本という形になることで、勝手な思い入れというのはより強くなる。好きな本については、背表紙を見るだけで嬉しくなったりするし、もうそうなると、だれかを個人的に「崇める」行為に近い。

佐野洋子さんのことばを借りれば、物言わないものだからこそ、完ぺきなのかもしれない。本は買ってくれと言わないしタレントみたいに余計な味付けされてたりしない。健気に古本になってまで読まれるのを待っていたりする。物言わないからこそ、人ってありがとうって言いたくなるんだよな…

 

そうやって偶然見つけた本は、読まされたものよりもどうしても自分の中に残る。自分の人生の要所にそれがあったりするのは、やはり、自分が見つけたと胸を張りたくなる過程が一緒に込められている。