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本のことを書いてあるブログ

ふんどし

※今日も、読書に関わりのないどうでもいい話です。

 

この間、ニュース番組を見ていたら、地域で開催されているお祭りの様子が流れて来た。盆踊りとか屋台のある中を歩いてまわって遊ぶ、みたいな一般の人向けのものではなくて、大人の男達がほとんど裸の状態で鉢巻を巻いて褌を占めて、ひとつの高みに向かって走るみたいな血気盛んな方のやつである。

男たちはみんなふんどしをしめていた。私はそれを見て「へえ、いいじゃん」と思った。

 

ふんどし、いいじゃん。皆一回やってみればいいのに。なぜかわからないけどそう思った。

 

日本には、男の子に限らずいくつかの通過儀礼的なもの、もっとたくさんあってもよいような気がする。ふんどしというのは、今の世の中でいうとかなり大きな違和感があると思う。けど、それは文化を持ったものだし、ある意味で正装でもある。そういったものを履く…っていうのは、ひとつの「やらねばならぬ」に飛び込むことと同じだと思う。

子供を、ひとつの何かに入り込ませるのいうのにはなかなか勇気がいる。多分、性格にもよると思うけれど、どこまでやれるのかは多分見ている方もわからない。けど、とにかく真っ直ぐに立て。とわたしはいつも思う。真っ直ぐに立て。勝負になんて、負けたっていいのだ。負けを知らない優勝なんて、あるはずがない。あったとしたらそんなもの、ウソである。とにかく…ふんどしを締めること、そのような状態になって仕舞えば、それはブッダが悟りを開いた丘の上(多分)に未だ何も知らずに一人で載っかるような状態になるだろう。疑念…羞恥…視線…寒さ…次々と湧いてくるものを、全てその身で受け止めて、ふんどし締めて立てばいい。

 

ここでいう「ふんどし締める」というのはいうなれば壁なのだ。それは…矛盾。突き破りたくなるような、大きなもの。強力なもので個性をゆがめられる経験をそうやってフィクション的に経験しておき、自分というベース以上のもの(度胸、博愛、余裕、などなど)を早めに身に着けるようにする。それから、その段階的な記憶を儀式によって対外的にも自覚的になることで周りともかかわりやすくなるように思う。

 

そんなふうに思った。ふんどし、一回やってみればけっこうハマるかもしれないって。