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本のことを書いてあるブログ

アンナ・カレーニナ/レフ・トルストイ

アンナ・カレーニナレフ・トルストイ

 

またもや漫画で読破で読了。

「まんがで読破」シリーズなのですがAmazonアンリミテッドにて続々放出されています。今回チェックしてみたら「こころ」や「斜陽」なども追加されていました。要チェック!

 

アンナ・カレーニナ

アンナ・カレーニナは、美しい淑女アンナが兄嫁の離婚を仲裁しにモスクワを訪れるところから始まります。

そのときキティと、キティに結婚を申し込むはずのヴロンスキーという若者がいるのですが、偶然にもヴロンスキーとアンナが駅で出会い、ヴロンスキーはそこでアンナに対し新しい恋に落ちてしまったもよう。いっぽうでキティに恋心をつのらせるもう一人の男リョーヴィンは、キティに求婚するもヴロンスキーを想っていたアンナからは「返事ができない」と断られます。

このへんは物語のキモらしく、この時代の女性像と男性像というのが読める部分だと思います。とにかく女性は、「待つ」ことを自らの在り方だと思っているし、そうして男性の求婚を待つことでしか人生を変えることができないようなのです。

 (リョービンは後でキティに求婚することでその恋が成就するのですが、その間の二人の複雑な感情は人間的だなあと思います。一+一=二でないときもある、みたいな。愛情というのは冷凍保存できるものなのかもしれない。)

 

そのときは義妹の仲裁をする役目を全うしようとしていた家庭に従順なアンナは、ヴロンスキーからの熱い目線を無視して家へと戻るのですが、その後社交界を通じて次第にヴロンスキーとの仲を深めていきます。

このへんの出会い、それからヴロンスキーの性格なんかは林真理子の「白蓮れんれん」を彷彿とさせるものがあります。ブロンスキーの、若くて熱意にありあまる一途な恋。それゆえ人妻であるアンナとヴロンスキーは社交界からの邪推をも差し置いて燃え上がってしまいます。淑女だったアンナも次第にブロンスキーとの恋に溺れ、なんと夫と住まう家へブロンスキーを呼んだりなど、目に見えて恋へと墜落してゆきます。

アンナには一人息子がいて、アンナはその子を目に入れても痛くないほどかわいがっているようです。「息子と、ブロンスキーを同じくらい愛している」というセリフも。しかしアンナは、夫に対しては冷たい感情しか持ち合わせていないようです。

 

物語が後半に向かうにつれて関係性は大きく変化してゆきます。

世間体を気にしてアンナの口封じをし、すべてをなかったことにするよう促す夫。かなり寛大な処置だといえますが、その一方で、ヴロンスキーの子供を身ごもるアンナ。このへんにくるとアンナに突っ込みを入れざるを得なくなってくる。夫は時間をおけば熱も冷めるだろうと感じているようですが、絶対ヴロンスキーみたいなバカよりも夫のほうが大人のように感じましたが、なにしろヴロンスキーは「見目よろしい」ようなので恋に溺れているアンナには冷静に人間性というものを判断することができないのです。(このへんまんがなので詳しくは理解してるとはいいがたい)そして、お産。お産のとき、アンナは死にかけてヴロンスキーではなくなぜか夫を呼びます。そこで二人は再び通じ合い、夫もアンナへの愛情を取り戻したかのように見えましたが、結局は別れることになります。(えっ、なんで?っていう感じ)

その後ヴロンスキーと暮らすことになったアンナですが農場の経営が成功しだしたブロンスキーに対し、社交界や家庭、名声などすべて捨ててまで手に入れたブロンスキーに対する愛情の深さ、それから嫉妬、執着の強さからその関係を自ら壊すようなことばかりしまい、息子に対する愛の深さから離婚もなかなか進みません。最後は行き違いのため、アンナにとってゆいいつ最後の拠り所だったヴロンスキーへの愛まで見失い、身を投げてしまう・・・という終わり方でした。

ちょっと今回は漫画に癖があったかもしれない。キティの髪型とか名探偵コナンの蘭みたいにタワー状になってたり何かしら不安になる感じがありました。

 

感想

感想を書くためにwikiを見てみたのですがブロンスキーの拳銃自殺未遂とリョービン&キティの結婚のくだりを書くのをまるまる忘れていたようです。。

まんがに描かれているのはアンナの自殺の部分だけですがその後ヴロンスキーが兵役したりリョービン夫妻の幸福が描かれていたりなどしていて人間的な欲求に溺れてしまったアンナ達との対比としてあるようです。

 

なんというか女というのは「愛憎に溺れる」のが似合っている生き物なのかもしれないですね。文学でもそういった、愛について回る嫉妬、憎悪、執着のような沼の部分をただひたすらに描いているものが多くあります。昼ドラのような・・・自分はそういうのをあまり読まないのですが。詩歌でも女性のものは観念の世界にたやすく入って行けるといわれていますが、そういった増幅しやすい感情を蓄えた生き物として女性があるのかもしれません。ヴロンスキーも勢い余って拳銃自殺したりなどしますが本当にこのへんは若くないとできないものだろうし「こわい」という感情で読んでいました。

愛し合う二人にしかわからない部分でしょうか。自分としては「SAMURAI」みたいにむしろ娘をかばって死んでほしい方なんだなと思います。それこそが男の中の男・・・!「女をかばって自分が死ぬ男」、こういうの「天使な小生意気」にも二度ほど描かれていましたがあのシーン思い出すと本当今でも泣けてくる。

 

しかしそんなこんなでアンナに対してどことなく共感できないままで読み進めてしまった感じがある。

 

 

「不倫」について書いてあるものは非現実的でドラマチックで面白いのかもしれないですが、たとえば、この間読んだ本にあったほかの夫との子供をずっと育てていた妻の感情なんかはわかる気がする。そういったことは自分だけが知っていればよく、葛藤や罪の感情を感じているからこそ共感を呼ぶのだと思います。周りの世間や人間関係を壊してまで為そうとするような愛情に対しては自分の場合やはり共感を見出せないというか。

例えば愛情、性欲についてもそれは結局食欲のように一定期間を経ればなくなるもので、周りが見えないくらいに燃え上がっているものならばなおさら、ほぼ100パーセントそれは自分の目だけにしか見えない勘違いの部分にあるのだと思う。

そういったものを拠り所にするのは人としていかにも頼りない。

 

そう思う一方でたとえばそれがもうほぼ割り切ったもので誰からも迷惑かけないで進めるんなら不貞というのは大人としてはありなんじゃないかとも感じる。まあ、大きな声では言えないですが。むしろ、一人の人を最後まで愛せるということなんてありえるのだろうか。間違えてしまったこともたくましく最後まで隠し通そうとする気概こそが真実なんじゃないかなあ、と思ってしまいます。自身の後ろ暗い部分を世間と折り合いをつけようとしたり隠そうとしたりゆらゆらしている時点では未だ、子供の遊戯と違わないのでは。いや、でもそういう意味でアンナは一途だったとも言えるのかなあ・・・

そう感じるのはもしかすると日本人的なこころなのでしょうか。

 

ja.wikipedia.org

 

なぜかwikiを貼って、終わりです。