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本のことを書いてあるブログ

四月十三日啄木忌/一握の砂

はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る



不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心




 石川啄木 - Wikipedia


四月十三日は啄木忌です。少し遅れてしまいましたが…、俳句に詠み込もうと思い、その前に有名な一握の砂を読んでからにしよう…としていたんですが、こちらの歌集は大作なためなかなか一日では読み終われませんでした。
いま、だいたい半分くらいまで読みました。


啄木は二人の姉と一人の妹があり、母からは溺愛され育った啄木ですが学校の授業でもだいたい、何も知らない十代のこころに対して「じつはクズ」のような感じで教えらることが多いと思います。「一握の砂」も読んでいてたしかに、日本男児とは言い難い部分はあります。前半部分の泣き濡れつつ自己に酔いしれる感覚は啄木イズムと言ってもいいような。
しかしそもそも、短歌は昔から風流やみやびな心を詠む性格が強いため、俳句などよりは確実に感傷に触れがちだと感じます。
それから、啄木は函館にお墓もあり北海道ともとてもゆかりの深い歌人でもあります。与謝野晶子とも親交が深かったようです。

Wikipediaを見ているとやはり、文学というのはどこかへ所属するか、有名な人、財力のある人に見初められてはじめて文壇の主流に上がれるような性格が強いようです。主流と亜流が分かれていくごとに、そもそものその部分について論じるような作品、思想も生まれてきます。しかし果たして最終的な人生がそこに集約されてあると言っていいのか、と強い疑問も生まれて来るのと、その辺の議論はだいたいつまらなくてわたしは飛ばしてしまいがちです。普段からして全然関係ないとこで個人的に見て、個人的な生活の上で書いているだけな立場だと実際そうもなります。貴族の遊戯…的な

しかし作品は人と離れたときであっても生き生きとあって欲しい。全く関係がないといいつつもこういったものは必ず文化の上にあるもので、強い体幹と柔軟さがあってはじめて「詠み込む」行為が出来るのかなと思いました。なんだかんだあった後でまた、オリジナルのものを追求しましょう。


じつはこちら、二周目です。短歌の覚えたての頃に一度読んだことがあると思うのですが、二周目で見るとまた違った感覚がありますね。
歌を引こうと思いつつ読んでいたのですが、なかなか難しいです!啄木イズムの「サビ」はどこなのか、、という目で読んでいると結局、すべてがサビなのかも?と思えてきたのだった…そうして皆がハイライトを引いている部分を引かせていただきました。



啄木は友人宛の手紙で蒲原有明を「余程食へぬやうな奴だがだましやすい」、薄田泣菫与謝野鉄幹を「時代おくれの幻滅作家」と記すなど、自身が影響を受けたり世話になった作家を侮辱したほか、友人からの援助で生活を維持していたにもかかわらず「一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと」と詠んだ句を遺すなど傲慢不遜な一面もあった。


Wikipediaの後半に啄木のエピソードがまとめられていますが、こういった部分にも人間らしさが見受けられると思います。こういう感覚はきっと誰もが持つ後ろぐらい部分なのかもしれません。



こちら、啄木イズムを踏襲したかったのか二年ほど前に詠んでみた短歌です。笑ってやってください。



手術のため入院

透明のマスクの下起こされてからこの日は唇ばかりを舐める

病室の眠りってまるで逃避旅行 名を呼ばれ元気装うあたり

ちちははもあねも遠のき 消灯後サカナクションイヤホンから流れ

殴られたい部分が時に顔を出しその何倍も助けられたい

「整形は元気でいい」と聞き一人 トイレ片手で行ってみる

レグホン、白色レグホン泣く時の理解され得ないこの胸を見せたい

カルシウムビタミンDから 包帯を巻いて引く当たりくじ侘しいな

ぽつぽつ、と書き始めてる文章がつまらないもっと本を読みたい








目薬のみな落とされつ啄木忌/ささき わたる



色々入れ込み過ぎてまとまりに欠けるまとめになってしまった…
後半も読みます。