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本のことを書いてあるブログ

春の陽気…リトープス買いました

おはようございます。

今年は気温が上がるのが早いですね。とはいってもまだまだ北国の春なのでこの間久しぶりに散歩して来ましたが春の陽気、芽吹きを感じるよりも風の寒さで耳が凍えそうになって帰って来ました。めっちゃ,外寒い時って何か内側に居る人に「皆〜!外は凍えるほど寒いゾ〜!」って報告したくなりますよね。(引用※こいつら100%伝説)ただ油断しまくっていた自分の驚きをそこで共有したくなってるだけなんですが。



ことしの園芸の話

で、雪もほぼ溶けて,天気が良い時は陽気を感じるようにもなって来たので植物を育てたい欲が高まってきました!…とは言ってもこれまでの反省(興味のあるものを買ったが育てられない、失敗する、あるいは膨大に増えて植物へのわだかまりを募らせる等)を生かして,育てやすそうなものを一年単位で少しだけみたいなテーマをもってやってみようと少しだけ思って居ました。
こんなふうに,訳わかってない事に対して入り口から,とりあえず指南書を読むみたいのはワクワクステージとしてありますが、その後で自分なりのテーマを決めるっていうのは良い事かもしれません。例えば服に関しても,わたしはテーマを持っていないんですが最近やっと、客観的視点で買うことができるようになりました。客観的視点ていうのは、買いたいものを買うのではなく「これを持っていないから買う」「これと合わせられそうなのを買う」ということです。それがないと…なななんと!当たり前のことですが白いシャツだけ五枚くらい集めていたりする自分がいたり,スニーカー三足しかないやんけみたいな事になっているのです。これを、他人にアドバイスする時は上手く、似合うのを選ぶことができるのに自分の服上手く買えないのどうして?という疑問からわたしは頭の中のゴーグルをかけ直してやってみることにしたら案外うまく行きました。前も書いたかも知れないけど

それで,話は戻りますがそんなふうにテーマを決めたんですが,その上で宿根草だったよくわからないモンスターみたいなピンク色のロゼット状態の花を処理する事にしました。これは、せっかく生えてるのに、あまつさえ自分がチョイスして買ってきたのに抜くというのは園芸ルールに沿ってないと何故か無意識のうちに思っていたのを,母から「気に入らないんだったら抜けばいいしょ」と言われて「はっ…!」としたからです。そ、そうだった!抜けばいいんだ。これは、園芸歴十数年の母から言われたことなので、とくにそれ以外のことは考慮なく従ってみる事にします。

というわけでうちにあるのはいまのとこクロッカスとヒヤシンスのみになりました。こちらの2種は申し分なくかわいらしく癒しを与えてくれています。で、あと申し訳ないですが紫陽花も手に余るため近々どうにかする予定です。

一応ですがいま、飼っている猫の方は二匹ともすくすくと育って元気です。



リトープス買った

で、その熱も冷めやらないうちに、先日YouTubeの生物チャンネルのほうで見かけたリトープスという石に擬態する多肉植物がとても気になってしまい、結局こちらを通販でぽちっと購入。

https://greensnap.jp/category1/succulent/botany/402/growth

リトープスは見た目が奇抜な多肉植物。見た目がとても美しいことから、「生きる宝石」と呼ばれるほど。リトープスの季節は春であり、夏場に休眠することも特徴になっています。また、リトープスはメセンと呼ばれることもあります。リトープス南アフリカナミビアが原産です。現地では砂漠地帯に生息していますが、こうしたことからも見た目が独特さなワケがわかるものでしょう。

リトープスはその見た目からサボテンが男性的と言われるのに対して女性的とも表現されるそう…自分はそれを聞いて「え?w」っておもいましたが本当にマットな質感でとても見た目がかわいい植物なんです。本当にうそかと思うくらいファンタジーな見た目をしてるので是非リンクから飛んで見てみてください。
とにかく驚くべきところは種類の豊富さ。
それでいて、ときどきこのリトープスさんはパッカンと割れて脱皮したり、真ん中から開花のごとく花を咲かせたりするそうで,なんだか植物っていうよりも動物みたいなたたずまいなんですよね。これは日本語でいうkawaiiに相当しまくると思います。なのでこれを、猫がいるし室内で育てるやつ毎回失敗するしという不吉な条件がありつつもどうしても気になってしまい買う事にしてしまいました。



ルーツマニアになりつつある部分


それから、話は変わってそういった外の世界に対する興味、好奇心の盛り上がりがあるなかでわたしは去年読みまくっていた趣味の園芸をunlimitedにてダウンロードしてみたのですが、今回はなんだか見ていてもそれほど楽しめないのです。なぜ?そう思ってぱらぱらと説明を読んでいた自分だったんですが、何かいまは、植物をごりごりに育てたいというよりも、生命体の「わけ」の方を知りたがっていて,例えばオーストリア産の植物が紹介されていようともその育て方というよりも、どこでどんなふうに生えていて,周りとどんな関わりがあって,どんな特殊な増え方をしたり、そもそもどんなわけでこんなところで買ったり育てられたりしているのかっていうことの方が気になってしまっているんだと思いました。だから、これを育てまくって居る人がアドバイスしてくれようとも、そんなの育てられるような庭もないし…それで萎縮してしまうのみ。それよりもオーストラリアの状態が気になる。みたいな。そんな自分は最近,特に意味もなく図鑑や先住民の本などなどを読んでいる日々。

考えれば絵画の本もそういった歴史やヒト、生活や風土のルーツがそのままで載っているというような部分があったんですよね。それも好きだったんだなあと思いました。で、突き詰めて考えるとそれを知りたい,学びたいというよりも,太古の時間みたいな雰囲気に浸ってる時間がスキなだけなんじゃないかな?ともいえるんですがとにかくそのわけを知ったり、触れたり没頭する時間がいまは好きなようです。

そんなわけでunlimitedの方ではこちらをダウンロード。



オーストラリアの本はあまり置いてありませんでした。このように、興味があっても「そもそも本としてまとめられた親切な説明すらない」ジャンルはいまだに数多あると思います。
イヌイットは何処が始まりだったか忘れましたがあんな過酷な地域で生きている「ヒト」という存在が気になって仕方がなくてとりあえずネットのみではいろいろと調べて居ました。イヌイットの人たちのあざらし漁は法律で保護されているそうですね。そう考えるに文化をほかの何より重視、保護するっていう視点は日本はまだ遅れて居るのかも…
イヌイットの人達の気になるところはまず、食糧事情ですよね。わたしが小学生のころにたしか先生が,イヌイットの人たちは野菜などが無いためビタミンを補うために動物の内臓などすべて食べて、それで栄養を充足させて居ると聞いたことがあるんですが,昔はそうだったようです。それから鳥を,アザラシの内臓の中で発酵させて摂るという方法もあるようでこの発酵食品の分野とかも何か気になりますよね。チーズやキムチ,納豆や大豆製品ナドナド古今東西で発酵食品は何処にでも存在してて、それがいちばん人にとって効率の良い栄養の取り方だったんだなと思うとこういう共通点には興奮してきますね。


浅く掘る生物ジャンルの魅力

それから生物チャンネルもよく見て居るんですが,こういうのを見てて何が楽しいのかというと,自分のなかのあたり前が簡単に、一瞬にしてそこで崩されてしまうからですね。だから区画化されたやり方や仕分けも、桜がクローンで増えるとか、男が女に変わるみたいなことをごく当たり前に生物のほうがやって居るという時点で「へー、そういうのもありなのか」って納得させられてしまって、無駄な事で悩む時間が減って、好奇心の方に変換されてきます。だから思うに,ポケモンとかも今はいろんな色が出て,ポケモン自体もはじめは動物や植物が原型としてあるような生き物であったのに、今は完璧に100%人の脳内でできたみたいなファンタジー上の生き物に変貌してしまってるのを見て居るにつけ,まあそれは良いとしてももしかして私たちが何万パターンも試す以前にこっちの生命体の方は既に何億万パターンも配合を繰り返してよりよい形を探って居るんなら,向こうのほうが正解というか生き残りに関してはより正解に近いって考えるほうが当たり前なんじゃないか…って何か思っていました。
昔のゲームや漫画って思えばそういうところがあったんですよね。あの一度ハマると出てこれない沼感、一から人が考えて居たというより世界各国に既にあったことに感心したことからヒントを得て作り上げられていたんだなと思うことも多いです。
※これは、ディスではありません
どっちかというと、リスペクトにあります。

あとは猿のことも考えていて思ったんですが,猿と人間はもしかするとまったく別の生き物なんじゃないかなと思って居ました。猿は,いつまでも待ってたらいつか人間になるんですかね?わたしは、ならない気がしてました。だとしたら地球は予めスタートラインが決められて居た別個の生命体が置き去りにされていった星で,わたしたちが後からその謎を自分勝手に解きまくってるだけなんじゃないかなって。深海の生き物をちょっと見てるだけでもわたしらの今まで見ていた当たり前ってがらっと変わってしまいますよね。それでつくづく思うのは「彼らはこんなにも知らない能力を持ってて好き勝手に生きているんだ」ということで、あまりに自分が無知の上に築いた当たり前に安住してせこせこ、そこでちょっとだけでもいい目を見ようとしてた事だったりして、人間の脳みそってそれくらいちっちゃいんですよね。だとしたら、ごりごりに築いて信じ込まされていた定説の方もそんな当たり前に沿って作られたもので,もしかしたら,いくつかは嘘なのかも…?


なんかそういう小説も、いつか書けたら書いてみようと思います。

絵画への興味〜名画で読み解くハプスブルク家の12の物語/中野京子

こんにちは。最近は大分暖かくなって、あっという間にあれ程積もっていた雪が溶けてしまいました。なので今日は靴箱の整理などして冬靴を棚の中に押し込んでたりしてました。

というわけで、最近買った本の紹介です。
まず、進撃の巨人をこの間25巻まで買ったんですが,またその続きを三冊ほどAmazonにて購入。

それから、今中野京子さんの「名画で読み解くハプスブルク家の12の物語」、低橋「旅のオチが見つからない」も購入。
unlimitedの方ではホリエモンの刑務所なう。ほかアンダーグラウンド系の本を読んだりしていました。(完読みはしてませんが)



ハプスブルク家の家訓ー「戦争は他の者にまかせておくがいい。幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚すべし!」


650年にわたり王朝として長命を保ったというハプスブルク家ですが、長きに渡り政治を担い多大な領土の統治を行ったヨーロッパ随一の名門一族でした。

デューラー、ベラスケス、(ティツィアーノグレコ)などなどこれまでunlimitedの方にて画集を見ていた画家の絵も出てきたので「おおっ」となっていました。

古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。
wiki

ハプスブルク家の人々は、自らを神に選ばれた特別な存在として高貴な青い血を誇り、その裏付けは、五つの宗教と十二の民族を何世紀もの長きにわたって束ね続け、神聖ローマ帝国皇帝の座をほぼ独占してきたという自信であった。(本文より引用)

そしてその高貴な血を残し領土を広げるために近親婚、政略婚などを繰り返しますが、その結果として次第に遺伝病などが現れてくるようになりその栄華は先細りして行きます。ギロチン台にひきすえられたマリーアントワネット、暗殺されたエリザベート皇后、世界史的ヒールとして有名なフェリペ二世、そうして血族結婚の繰り返しの果てに生まれたカルロス二世はスペイン・ハプスブルク家を消滅させてしまいます。マリーアントワネットの時代には悪政や戦争のし過ぎによる財政の逼迫,それから寒冷期による不作などで国民から上層部にまで不満が蔓延していました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%AE%B6

こちらの本はそのハプスブルク家について,宮廷画家が描いた肖像画などから「怖い絵」でお馴染みの中野京子さんが読み解いて行きます。やはりもっとも目をひくのはYouTubeや中野さんの他の著書などでも取り上げられているカルロス二世でした。ただ一族の高貴血を保つため度重なる近親婚を繰り返したために生まれたカルロス2世は「常時よだれを垂らしていた」「知能が低く精神も病んでいた」などと言われて居ます。ただこの時代は卑しい血をそこに入れずに高貴な血を保つことが重要視されていたそうですが、皮肉にも度重なる近親婚によって産まれたカルロス二世のその醜さは結婚した妻を鬱病に追い込むほどであったそうです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%82%B92%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%8E%8B)

カルロス二世以外でも夫の死を受け入れられないために精神を病み,お供を引き連れたままであちこち夫の死体と共に行脚し、それから余生を幽閉されてすごした…という「狂女フアナ」の絵などなどこんなふうに,センセーショナルなものも多く書かれておりそれがわたしたちのような市民の目から見ると時代もそうであればまったく異世界の出来事のように、ファンタジーのように探りを入れてもっといろんなことを知りたくなってしまいます。読んでいて、面白い!と思ってしまうのは結局人の興味って人と人との軋轢,トラブル、不幸などそういったものと切り離せないからなんだなと思いました。マスコミが、無責任に色々探りを入れていくのも、「オレ達はまったくかんけ〜がネェ」がゆえの行いだったんだなって何か思いますね。失礼過ぎるものは見たり,話題にすること自体が加担なのかもなともおもいますが。
話ちょっと飛びますが,とくにSNSなどであるコラージュみたいな悪質なもの、イメージや印象に対して影響を与えるものははっきりと作る側が悪意を持ってやっていて、経験則で誰もが悪影響が分かってるはずなのでもっと取り締まって良いと思います。立件も簡単な気がするが…
できるのかな?
で、話は戻り、身分が高いその時代の女性なんていうのは、日本にある源氏物語の男性を待つ女性のようにきっと多くの我慢を強いられたんだろうなあとも思います。今のようにドラマもなければ多様性みたいな発想もなく,ガチガチに型にはめこまれる…きっと昔であれば拠り所もなく、吐け口もなく、ちょっとでも動けばすぐに人の話のタネにされて…などなど、苦しい思いも沢山あったのでしょう。そう考えてみると絵では人の欲求というか妄想を掻き立てるような書き方をされたりもしてるのですが、本人が話したり,小説で書かれれば違って見えてくるのかも?そんなふうに想像力もかき立てられますね。これを読んでいてずっと前に,遠藤周作のマリーアントワネットを読んだのを思い出しました。あの時わたしはいまよりハプスブルク家の歴史を知らないまま突如その物語だけを読んだ感じだったんですが、それがこの本を読んだおかげでパズルのピースのひとつみたいにはまって理解出来た感じがしました。仮面舞踏会のシーンも出てきていましたし,…もう一度読みたい!です。

それから、ここに宮廷画家として出てくる人はたくさんいるのですが,その芸術家達も一家の王様がわざわざ選出し、優遇していたそうでその審美眼のたまものとして今それが見られているというのもあります。ベラスケスの「ラス・メニーナス」という絵、多くの人が知っていると思いますが…わたしも何となくな気持ちでこれまでは見ていたんですが、ここに並んで入れられるとベラスケスってすごいんだなってことがわかります。単に人を書くという肖像画と少し違ってさまざまな暗喩のような物語性が込められているんですね。こういったものだと、王や王妃の美しさ,立派さを流布するだけの絵ではなく、世界観もろともで楽しんで見られるようなすこし異質の面白い絵だったんだなということが分かりました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9
wikiにもちゃんと載っている

あまり関係ないですがジャン・レオン・レジームの書いたナポレオンってすごいカッコいいですよね。やっぱり美化はされてるのかもしれないですがこういうのは、民衆を盛り上げるのに大いに役に立ったであろう。

ジャンレオンジェローム《エジプトのナポレオン》キャンバスウォールアートクラシック絵画写真プリントモダンウォールデコレーション家の装飾80x105cm 31"x41"(フレームレス) https://www.amazon.co.jp/dp/B08Y5Q9HJD/ref=cm_sw_r_cp_api_i_1SXJX4A3HW9SPEBVNEE1

歴史もそうですが絵画史なども思わぬところでつながりがあったりなどしてこの作家がここから影響を受けている…それがわかるともっと面白くなりますね。ちょっと前にトルコのエッセイを読んでいて,「トルコのダンス(ベリーダンス)は西洋画家がその絵に描いたことで世界中ででブームになった」と書いてあってもしや、ジャン・レオンのこと…?っておもってました。

それから話はちょっととび…この巻末の方にマネによる「マクシミリアンの処刑」という絵があってふと、思い出したんですがわたしは先日「マネ,モネはあまりすきじゃない」みたいなことをこの間書いてたと思いだしていました。…が、今思えばあのときにその二人の絵を鑑賞した後に見たベルト・モリゾとメアリー・カサットの絵がすばらしすぎて、女性や「ひと」をいきいきとに捉えているのが好きだなと感じたのと、それからそのときにマネがモリゾにつらく当たっただとか、それでモリゾが画家としても女性としても苦しんでいたということを知ったために自分のなかの解釈がいつのまにやら改変し、遡って何かそれが傲慢な絵にしか見えなくなってたんだなーと改めて絵だけで見ていて思い出していました。
こう思い直すと自分の感じ方ってこんな脆かったんだなって思います。まあそれは、人物として真実もあるのかもしれないですが。そんなふうに影響してしまうみたいです。でもその辺を込み入ってもっと考えてみれば、マネがモリゾをわざわざ画家としてでなく女性としか書かなかったということも力量をそう見做していたのではなくある意味で、男の画家としてのプライドがさせるような嫌がらせ的な面もあったのかもしれないですよね。
全然知らないんですが。
モネの絵とかも普通に叙情的だし、綺麗ですしね。

トラジャ族の死生観について調べてみた

トラジャ族の死生観、葬儀について

「死ぬために生きている」[28]とも言われるトラジャ族の社会において、葬儀は労力面も費用面からも最も贅を尽くした行事である。

トラジャ族は、死を突然で断絶的な出来事とは考えず、プヤ(Puya)と呼ぶ魂の地(または来世とも考えられる)へ至るゆるやかな流れの一環と捉えている。肉体的な死を迎えると、死体は香油を塗られ[29]、吸湿性を持つ生地の帯でぐるぐる巻きにされてトンコナンに安置[注釈 2]され、ゆっくりと乾いてゆく[3]。この殯(もがり)の間、死者の魂は村の中を一時的に彷徨っているだけであり、遺体は生前同様に家族と共に過ごす[10]。

葬儀は数週間、ときに数ヶ月または数年[2]に亘って行なわれる事もある[注釈 4]。

葬儀におけるもうひとつの重要な儀式は、水牛の屠殺である。これには、白い水牛が特に喜ばれる[29]。その人物が持つ権力が大きければ、屠殺される頭数も増える。水牛の体と頭は式場に並べられ、「眠る場所」にいる主人(の魂)が来訪するのを待つ。

葬儀が終わると、遺体はあの世で必要なものと一緒に棺に収められる。棺が安置される場所は三種類ある。石の断崖に掘られた室、石質層の洞窟、または断崖に吊るされるかのどれかである。富める者が収められる断崖の石室は、掘り上げるまでに数ヶ月がかかり、費用もかかる。洞窟は、時に家族全員さえ安置できるほど大きなものもある。断崖にはバルコニーが設けられ、外界を向いたタウタウ(Tau Tau)と呼ばれるパラミツの木で[33]作られた像が置かれる[注釈 5]。赤ん坊や子供の棺は断崖や木に吊るされ、ロープが朽ちて地面に落下するまで何年もの間そのままにされる例もある。

トラジャ族とは

トラジャ族(Toraja)は、インドネシアスラウェシ島にある南スラウェシ州および西スラウェシ州の山間地帯に住むマレー系の先住少数民族。総人口約65万人のうち約45万人はタナ・トラジャ(en)県(en)(「トラジャの地」の意)に居住している[1]。トラジャ族のほとんどはキリスト教を信奉し、イスラム教と「アルク」(aluk‐「道(the way)」の意)と呼ばれる土着のアニミズムが続く。

20世紀に至る前、トラジャ族は自らが固有の民族であるという概念は持っていなかった。オランダの植民地支配とキリスト教伝播がもたらされる以前、トラジャ族は高地にある村内から出ることはほとんど無く、より広い地域を認識していなかった。

19世紀終盤になると、スラウェシ島の特にマカッサル族やブギス族にイスラム教が伝播し拡がると、これを危惧したオランダはキリスト教の布教に努め、当時まだアニミズムを信奉していた高地の住民に眼をつけた。

初期、宣教師たちは、奴隷売買で得ていた高い利潤を享受できなくなることに反発したトラジャ族の特に貴族層から強い抵抗を受けた[13]。

過去のトラジャ族社会において、家族の関係は社会階級にも支配されていた。階級は3つあり、貴族、一般人、奴隷であった。このうち奴隷階級は1909年にオランダ領東インド政府が下した政令によって廃止されている。

奴隷は自らを買い受けて一般人となることが可能だったが、子供の階級までを変えることは出来なかった。奴隷は、金やブロンズの装身具を身につけること、住居を彫刻で装飾すること、主人と同じ皿から食事を取ること、上位階級の女性と性交渉を持つことを禁じられ、これらを破ると死刑に処された。

大地の持つ権威はト・ミナア(to minaa、「アルクの司祭」の意)と呼ばれ、その約束事や現象は「生」(具体的には農業)と「死」(葬儀)の両方に及ぶ。アルクは単純な信仰システム(en)ではなく、法律・宗教・習慣の複合とされ、社会生活・農業行事そして伝統的な儀式を規定する。その詳細は村ごとによって若干異なる可能性があるが、生と死に関する儀式が明確に分かれている点が共通の必要条件となっている。トラジャ人は、それぞれの儀式が別れていないと遺体が滅んでしまうと考えている[24]。これら二つの儀式は非常に重要なものとされている。しかし、オランダ宣教師が布教に当たっていた時代に、規制されなかった「死」の儀式は今日も引き継がれているのに対し、「生」の儀式は催しや出席が禁止されたため廃れてしまった[14]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E3%2583%2588%25E3%2583%25A9%25E3%2582%25B8%25E3%2583%25A3%25E6%2597%258F



https://www.gettyimages.co.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%A3%E6%97%8F

⬆️こちらに写真が沢山あります。

本を読んでいて、トラジャ族の死生観が気になったので少し調べてみましたが、色々読んでいるよりも百聞は一見にしかずで、写真で葬儀の様子や水牛の屠殺の風景などを見ていて、ほんとに他の国の文化や死生観は一朝一夕では理解し尽くせないなあと感じてました。
これを調べていると「ミイラと共に暮らす。トラジャ族の死生観」など色々な見出しの興味深い記事が出てきますが、わたしたちにとって一般的に持っている死に対するイメージのように不浄な物…不吉な物という考え方ではなく、死んだ人も病人としてしばらくは共に暮らし、生きているように着替えやお世話をしながら時には数年間ともに暮らしたりなどもするそう。そのようにしばらく共に過ごすことで家族は死者との本当の別れとなる葬式への準備期間を過ごし、心の整理を済ませるのだそうです。そうして多大なるお金をかけて行う葬儀というもので故人を天国へ送り出すのはひとつの通過点であり、人生において最も華々しい機会だと考えるようです。

とても独特な死生観だと思いますが見ていて感じたのは生きていることのありがたさ…でした。いい人、悪い人なんて好き勝手に色付けしてますが、ふっくらした生きてる顔をしていてこちらに笑いかけてくれる人であればおばさんでも、怖そうな人でも、汚い服着ていても皆良い人じゃないか…そう思った。「死」を意識した後でいまある日常がありがたく思えてくるのだった。
それほどに死はひと目見てやはり怖いと思う。でも家族であればたしかに、どうあってもずっと共に居たいというのも理解出来ますね。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%25E7%25A5%2596%25E5%2585%2588%25E5%25B4%2587%25E6%258B%259D

祖先崇拝についてのリンクはこちら。

日本でもお盆の行事はありますね。子どもの頃はお盆の時期に必ず怖い番組特集があって、宜保愛子(義母ではなかった)が出て来て先祖を自らに下ろして、数珠をちぎるとかちぎらないとか…それが悪霊だったら数珠が派手にブチ切れたりするんですが、それを姉と一緒に布団を被って見守ってた記憶があります。

日本人の死生観ってどうなっているのかな?と考えたりしますが自分の場合子どもの頃に読んだ手塚治虫仏陀とか、火の鳥の影響を受けていて輪廻転生みたいのがあるのかなとぼんやり考えてたりする気がしてたんですが、あれだと仏教ってことになるんですもんね。もう自分は子どものころから漫画文化の中で日本昔ばなし、それから世界名作劇場のいろんなお話、手塚治虫ドラえもん…などなどを読んで育ってきて、それが血肉になってしまってるので「ふつうに考えてそんな感じ」みたいのが切り離せなくなってあるなあって思ってました。
マジで漫画、テレビっ子育ちだったんだなと思ってびびります。

それから死生観について調べつつも思ったのが、こういった身分制度が自然発生してずっと保たれているのがどこの文化圏でも見られるっていうことを考えてたら、もはや人の在り方として人を区切って価値をつけて行くっていうのが本質的に逃れられないものとしてあり、分かりいい秩序としても人は本能的なものを選び、あるべくしてある状態がそれだったのかなと思えて来ていました。それを否定したあとでやっと平等があるわけですが、今わたしたちが声だかに言う皆が平等で権利があると言うのも西洋の文化圏から来たものを使っていて、本当に人が普通に暮らしていて原始時代から飛び出して「理性」というものを意識した後で必ず皆でそうしよう、その方がいいという流れになったのかと考えてみて、もしかするとならなかったのかもなとも思わないですか。
そう考えるに自分の国や土着のものと本当に結びついている部分なんて一体どこにあるのか…と思えていました。いま世界を見渡してみて、ただニュースを見出し読みしている時点かもしれませんがアメリカっていう色々な民族が合わさった国みたいに議論で決めて、多数決で考えて、合理的判断を下して、それから正義のもとに国民が感情的にひとつになったり、自分のかっこたる文化っていうのが限りなく思い出や調べて知ったあとの部分になってしまえば、そんなふうに複合的な国民性みたいのがあるのが日常的になって行くのがいろんな人がいて当たり前の世界の在り方になって行くのかなと思ってました。今考えているあたりまえなんていうのが、一体どこから他人に用意された物で、どこからが理想で、どこからが自分のしたいと感じてる未来なのかをいちいち考慮してみないと、これだけ恣意にあふれた情報の中に置かれれば、自分の目で見てきたもの、経験して来たもの以外の部分に対してはもう何が誰のものだったかも分からないというのが今でもあるのかなと思います。










余談ですがゲーム会社EpicGamesはフォートナイトの売上金3/20-4/3までの全てをウクライナ人道支援活動へ寄付するそうですね。こういう正義っていうものを意識した意思決定ってなかなか日本の文化では見られないなって思っていました。
「フォートナイト」開発会社、ウクライナの人道支援に寄付 既に3600万ドル集まる : 映画ニュース - 映画.com