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本のことを書いてあるブログ

三四郎(漫画で読破シリーズ)と今更神経衰弱することについて

漫画で読むシリーズ

 

三四郎 (マンガで読む名作)

三四郎 (マンガで読む名作)

 

 

おなじみの、漫画で読む名作文学シリーズ「三四郎」読み終えました。いつもはKindle Unlimitedにて読むことのできる「漫画で読破」の、イーストプレスのものが多かったのですがこちらは、日本文芸社の「マンガで読む名作」シリーズ。微妙に違います。

ちなみに次に控えているのは日本文芸社の「マンガで完読」シリーズの嵐が丘。出版社は同じですが、微妙に違います。

 

こちらは絵がとても綺麗で読み応えがありました。いつも「漫画で」シリーズを読むとき、読み終えた時は漫画で書いた方の「伝える」という感覚がひしひしと伝わってきます。

世に知られている名作を読み、噛み砕き、論点をまとめて、それも絵で描く…というのは、なかなか厳しい挑戦なのかも知れません。

 

※以下、簡単なまとめ

 

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。そして、日本より頭の中の方が広いでしょう?」

 

三四郎という熊本育ちの青年が、大学で勉強するために東京へ向かうところから物語は始まります。この話は、主に文学、学びという精神性の広がりを、それを通じ人と関わり合い研磨することを志しながらも、自分の異性関係や育まれてきたアイデンティティに悩める、というような何か、この頃の文学作品に多く見られるような雰囲気があります。

というか…自分は、文学を深く読み込み、語り合うというような経験を学生の頃はそれ程経てこなかったため、こういうふうに現実感に対して危機意識を持ち、運動を起こす、積極的に思想の一端を担おうというこの時代の感覚がいつも新鮮だったりします。

 

三四郎が恋をした女性は怪しげな雰囲気があり、多くを語らないわりに彼を翻弄します。三四郎が、友人が師と崇める人間と関わりを持ち、女性に対して悩める心境を忘れるほどの精神の渇を癒す一方で、その友人との関わりで又、その女性と会うことになります。しかしそれは気まぐれのひとつに過ぎず、自分は結局他の男性からの興味を惹くための道具でしかなかったという印象的なシーンがあります。そしてそれ以後のなんとなく、自分のこと好きなのかもしれないという女性とのやりとり。この辺は三四郎の立場から描かれるため、こちらも女性の気持ちがよく分からなかったりします。

 

何か、好まれる女性像というのは、妖艶といったら変ですが、何か身体的関わりすれすれにまで来られるほどに相手が献身的だったり、またはこのようにミステリアスでいて、悪女のような存在だったりするのかも。

 

そんな感じです。自分的にはお笑いの三四郎と関係あるのかどうかというのも気になった。

自分は「ワタル」という名で短歌を作っているのですが、古典和歌である「未だ渡らぬ朝川渡る」という歌を後で知りたまに思い出してたりしてたんですが、あれを道ならぬ恋の歌だったというリアルな記述を読んだとき一人汗をかいたという経験があります。

ぜんぜんそういう意味は込めていない。

 

神経衰弱

 

トランプや、将棋をたまにする事があるけど、たまにするくらいなので正直、ルールというのはほぼ分からないor忘れてしまっているのだと言っていい。しかし、そんなズブの素人な感じでいるのに、それでもなお勝負というものに負けると悔しいんだなあと自分は感じるのである。実際にやっていて、そういう理由をまざまざと意識することはないにせよ、先日アメトーーク!の将棋大好き芸人で、「将棋というものは勝敗がこれまでにないほどはっきりと出る競技で、その時点でどちらの頭が良いのか悪いのかが明らかになる。そのため、負けると死ぬほど悔しい」と言っているのを聞いて、わたしは将棋を二度と指さなくなった。羽生善治氏、それから藤井聡太くんの著書を読んだけれど、二人とも信じられないほど将棋の鍛錬を積んでおり、まさに趣味も、仕事も、人生も将棋と言っていいほどの没頭ぶりである。そして、それ程までに鍛錬を重ね自己の更新を余儀なくしたものに負けるとそれは死ぬほど悔しいに違いない。そんな二人がいる世界の中で、自分が将棋の勝負に手をつけなかったからと言って何なのだろうか。どうでもいいわ。そう思ったときから、「ゴミみたいなやり取りであったとしても負けるとストレス感じるからわたしはしない」を辞さなくなったのであった。

大丈夫だろうか。

とにかくそういうわけで、将棋はしないのでもしそういう機会があったりすると近くにいる人に変わってもらっている。そして、トランプである。これは、コミュニケーションと運の要素が割とあるので、楽しめる。「が!」神経衰弱というものがあり、これがはっきり言ってぜんぜん楽しくない。自分の今の生活を正直にとろすると、いま、加齢により短期記憶の方が非常にやわになってきているような気がしているのである。そう、まさにボケ老人がボケの前兆を隠したくなるかのごとくにわたしは「試されたくない…」気持ちになっていた。それでもなお、わたしはした。トランプが閉じるごとに即座に記憶の方も「ぱたっ!ぱたっ!」と消えていくのがわかり、わたしは気が遠くなりそうになった。

ぜんぜんわからん。わたしは懸命に「覚える」スイッチを押したのだが、いっこうに頭が「いっぱい覚える」モードに入らない…どこに何があるのかとか、何が出たとか、というより、めくる測度の速さと同じことの繰り返しすぎて、3とか9の区別すら一瞬付かなくなる。

数字、それはまるで未だ感傷のこもらない異国の顔ーーーーーーー

途中、まぐれで当たったりとかしたけれどそういう時は喜びというよりもやや本気モードでホッとしていた。

その点子どもというのは短期記憶に対してはめっぽう強い。一応自分のために書いておくがわたしもあの頃は大人から「すごいねー!」と言われていた記憶がある。何か子どもって、映像として頭に擦り付けて残しておく機能みたいなのがありますよね。それを、目の前の作業をやりながらも家にある箪笥の引き出しを当たり前に開けるみたいにして、パッと出してくる。

おそらく、大事なことと、そうでもない事の取捨選択がまだはっきり行われていないのかもしれない。自分ときたら、いま、ストレス、覚えること、やること、義務とかでごっちゃごっちゃになってるのを夕方、酒でリセットしているような感覚。そんなもん、記憶が必要以上に定着するはずがない。

 

で、結果として、二倍くらいは違っていました。そして2回目はもうしなかったわたしである。